500日計画の作成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 02:27 UTC 版)
アバルキン副首相を中心にソ連政府内で政府案の修正作業が行われていたのとは別に、ゴルバチョフ大統領(1990年3月に就任)の経済顧問であったシャターリンと、ロシア共和国副首相のヤブリンスキーを中心とする作業グループによって「500日計画」が作成されていた。 この計画の下敷きとなったのが1990年2月にヤブリンスキーが個人で作成した経済改革プログラム「400日計画」であった。当時、ロシア最高会議(ロシア語版)議長であったエリツィンは、ゴルバチョフおよび保守派と対決していたが、ヤブリンスキーをロシア副首相に任命し、ロシア共和国内での市場経済化を独自に推進しようとした。 このようなロシア共和国の動きに対してゴルバチョフは、エリツィンに対抗する必要性に迫られた。その結果、既にルイシコフ首相、アバルキン副首相による政府案作成および修正作業が行われていたにもかかわらず、エリツィンと連携し、シャターリンを中心に作業グループを作り、彼らにプログラムの立案を依頼した。500日案作成に先立ち、ゴルバチョフはシャターリンに対して、ソ連経済の抜本的改革を説いた。シャターリンは、ゴルバチョフのソ連経済に対する急進的改革の熱意を確信した。
※この「500日計画の作成」の解説は、「500日計画」の解説の一部です。
「500日計画の作成」を含む「500日計画」の記事については、「500日計画」の概要を参照ください。
- 500日計画の作成のページへのリンク