2006年の包括的和平協定後~2011年の「7項目合意」前
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「ネパール人民解放軍」の記事における「2006年の包括的和平協定後~2011年の「7項目合意」前」の解説
2006年11月、政府とマオイストの間で「包括的和平協定」が調印された。包括和平協定が成立した日に、マオイストの武装勢力である人民解放軍の7師団は、全国28ヶ所に散らばった宿営地の建設予定地に集結した。マオイストの戦闘員はこの日から宿営地の建設を開始した。一つの師団は本部連隊を含む四つの連隊からなり、1つの連隊が1つの宿営地に滞在した。人民解放軍の武器はそれぞれの本部連隊の宿営地にある武器庫にしまわれ、これを国連ネパール支援団(UNMIN)が監視した。 2007年2月18日、UNMINはマオイストの武装解除のための武器・兵力の登録作業の完了を報告。6月に入ると、国連ネパール支援団が、全国の宿営地で登録された約3万人の戦闘員の認証検査を開始し、19,602人(このうち女性が3,846人)が人民解放軍の戦闘員として認証された。(最初の和平交渉が開かれる前、つまり2006年5月25日の時点で18歳を超えていること、この日よりも以前に人民解放軍に入隊したことが確認されたメンバーのみが、人民解放軍の戦闘員として認証された。)。 これらの戦闘員を国軍であるネパール軍に統合する作業が、ネパールの和平プロセスの最重要課題となった。 マオイストと7政党は、包括和平協定で人民解放軍の戦闘員をネパール国軍に統合させることで基本的に合意していた。しかし、マオイストと他党が軍統合の問題を政権抗争に利用したこと、マオイスト自身が武装勢力の温存を試みたこと、統合の仕方に関してマオイストと他の勢力の間で意見の食い違いがあったことなどの理由で、軍統合の作業はなかなか進まなかった。包括和平協定を含む関連の協定や合意、暫定憲法のなかで、人民解放軍の統合・リハビリの詳細について明記されなかったことも、合意を遅らせる原因となった。(暫定憲法には、「暫定内閣は人民解放軍の戦闘員を監督、統合、リハビリする特別委員会を設置する」とだけ記されている。) マオイストは当初から、宿営地にいる戦闘員全員を部隊ごとネパール国軍に統合させるべきと主張した。一方、ネパール国軍の幹部や他党リーダーのなかには、マオイストをネパール軍に統合することにあからさまな反発を示す人もいた。 ネパール首相が率いる政府で国防大臣を務めた統一共産党の女性副議長のビデャ・バンダリは、国防大臣に就任した直後に、「政治的に洗脳されたマオイストを国軍に入れるわけにはいかない。彼らは党に戻るべき」と話して、物議を醸しだした。 2008年8月、プラチャンダ議長が首相に就任し、人民解放軍最高司令官を辞任。人民解放軍最高責任者に前副司令官・パサン(ナンダ・キショール・プン)が就任した。 マオイストはネパール国軍との統合を国軍に要求していたが、国軍制服組トップのルークマングド・カトワル陸軍参謀総長は軍の政治的中立性が保てなくなるとしてこれに公然と反対していた。また、「マオイストをネパール国軍に統合するとはどの合意書にも書かれていない。『資格を満たす人だけが治安部隊に合併される』と記されている」と指摘しただけでなく、戦闘員の将来に関して「店を開くか、食器を洗うか、マレーシアに出稼ぎに行くかは個人の自由だ」と、彼らを蔑むような発言さえした。ついに2009年5月3日、プラチャンダがカトワルを陸軍参謀総長から解任。 これに対し連立与党、野党、国軍が一斉に反発し、ラーム・バラン・ヤーダブ大統領が解任を取り消し首相を非難するという事態に立ち至り、翌5月4日、プラチャンダが首相を辞任。人民解放軍の取り扱いをめぐる対立がきっかけとなり、連立政権崩壊という事態となった。マオイストは下野し、後継のマーダブ・クマール・ネパール政権は統合に消極的であった。
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