1950年代――God Speaksと交通事故
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「メヘル・バーバー」の記事における「1950年代――God Speaksと交通事故」の解説
1950年代に、ババはインド以外に二つのセンターを設立した。その二つとは、アメリカ合衆国のサウスカロライナ州のマートルビーチにあるメヘルスピリチュアルセンター(Meher Spiritual Cente)とオーストラリアのブリスベンの近くにあるアヴァターズアボード(Avatar’s Abode)である。ババは、1952年の4月にメヘルスピリチュアルセンターを発足した。1952年の5月24日にこのスピリチュアルセンターから、カリフォルニア州のオウハイ(Ojai)にあるメヘル山(Meher Mount)へ向かう途中で、ババが乗り合わせた車がオクラホマ州のプラグー(Prague)の近くで正面衝突した。ババと同乗していた人々は車から投げ出され、多くの負傷をした。ババの脚は酷く骨折し、鼻の骨折を伴った顔面に重傷も負った。負傷者たちは、ノースカロライナ州のダーラムのDuke病院で治療を受けた。ヨーポン砂丘(Youpon Dunes)で静養中に、エリザベス・パターソンの所有の土地で、ババはスーフィズム・リオリエンテッド(Sufism Reoriented)という名前をババによってつけられたスーフィーのグループを指導することになった。 メヘル・ババは、1953年の8月に、彼の主要な本である『God Speaks』を口述筆記させ始めた。この本は、創造とその目的を主要なテーマとしており、デヘラードゥーンでアルファベット板を用いて行った。1954年の9月にメヘル・ババはメヘラバッドで男性のみのサハヴァス(sahavas)を行った。この集会は後に『3つの信じられない週』として知られている。この頃に、ババは『メヘル・ババの』という宣言を発している。その中に、ババは『様々な疑念と確信が』他の人々には存在するにもかかわらず、自分がアヴァター(Avatar)であることを再度宣言した。このサハヴァスの終わりに、アメリカで編集し出版するために、二人のスーフィズム・リオリエンテッドのメンバーである、Ludwig H. DimpflとDon E. StevensにGod Speaksの完成した草稿を手渡した。その本は結果としてDodd, Mead and Companyによって、翌年に出版されることになった。 1954年9月30日に、ババは、『最終宣言』メッセージを発した。この中で、彼は様々な謎に満ちた予言を残している。 1954年の10月に、メヘル・ババは、アルファベット板を廃止し、独自の手を用いるジェスチャーを使用し始めた。その後は亡くなるまでこのジェスチャーを用いた。 1956年12月2日にインドのサーターラーの郊外で、ババが同乗していた車が制御不能となり、2度目の深刻な自動車事故が起こった。ババは、骨盤を骨折するなど、他にも重傷を負った。ババのマンダリの一人であるNilu博士は事故死した。この衝突によって、ババの体は酷く不自由になった。外科医たちの予想を覆して、大いに努力した結果、ババは再び歩けるようになったが、その時以来ババは常に痛みに苦しみ、動き回る能力が極めて制限されることになった。実際に1958年の西洋への旅の際には、所々で介添えが必要だった。 1956年に、彼が5回目にアメリカ合衆国を訪れた日にババはニューヨークのデルモニコホテル(Hotel Delmonico )に滞在した後に、サウスカロライナ州のマートルビーチのメヘル・センターへ向かった。7月には、ワシントンD.C.に旅をし、James Terry(Ivy)Duce夫人の家で友人や弟子たちを迎えた。Duce夫人は、アラビア・アメリカ石油会社の副会長の夫人であった。その後にババはカリフォルニア州のメヘル山に向かい、さらにオーストラリアへと旅を続けた。アメリカ合衆国とオーストラリアへの最後の訪問は1958年に行われた。
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