1914年 第一次世界大戦勃発
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「パーシー・グレインジャー」の記事における「1914年 第一次世界大戦勃発」の解説
6月28日のサラエヴォでの銃声から世界は第一次世界大戦へと向かうが、その年の9月、32歳のグレインジャーはアメリカへ移住し、そこで終生を過ごした。この年、出版社シャーマー(英語版)と契約し、翌1915年、ピアノ奏者としてニューヨークでのデビューを果たした。 1917年の4月、34歳の時に父が亡くなり、この年の6月に楽隊員として軍に入隊する。フォート・ハミルトン(英語版)の第15歩兵団に配属され、ここでオーボエとサキソフォンの演奏を覚える。1918年にグレインジャーはアメリカ合衆国の市民権を得ており、代表作となったピアノ曲、『カントリー・ガーデン(英語版)』はこの年に書かれている。1919年に軍を除隊した。 彼の音楽は従来の常識的な編成にとらわれず、大編成の木管楽器での合奏や、複数配置された合唱隊や打楽器のみのためのもの、ピアノのための作品も4手や8手のものが含まれる。主な作品は、ピアノの独奏、弦楽を含む三重奏、四重奏等であるが、『カントリー・ガーデン』もこの多様な編成の例外でなく、大きな編成の木管合奏への編曲もなされた。この時期がピアノ奏者として、また、作曲家としての最盛期であった。当時体重は約66Kg、身長は約173cm、ブロンドの髪を長く伸ばし、「走るピアニスト」と言われたように、階段を駆け上がり、演奏は町から町へ歩いて、または走って移動した。 1922年、グレインジャーの音楽的な才能を伸ばすため共に行動してきた母親が自ら建物から飛び降り、亡くなるが、彼は1928年に詩人で画家でもあったスウェーデン人のエラ・ストローム(Ella Ström)と46歳で結婚している。翌1929年、シカゴ市民歌劇場(英語版)での『戦士たち』の演奏が、47歳のグレインジャーの指揮する3台のグランド・ピアノと最大編成の管弦楽によって行われた。 1932年から1933年にかけて、グレインジャーはニューヨーク大学の音楽学部長を務め、1938年、彼が57歳の時にグレインジャー博物館が開館した。彼は1941年に、エッセイ『如何にして私は菜食主義者になったか』(How I became a meat-shunner)を書いている。1914年以来2度目となるイギリスでのピアノ公演が1947年に行われ、1950年にアメリカ芸術文学アカデミー(英語版)から表彰された。
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