1902年架設上り線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 10:07 UTC 版)
前述のように、1885年(明治18年)に起きた淀川の大洪水をきっかけに、淀川下流部の放水路建設工事が開始された。1896年(明治29年)から開始された治水工事では、淀川下流部において中津川の流路を一部利用して拡幅・直線化する形で新淀川が開削された。新淀川の開削に伴い、第12回帝国議会において線路の付け替えおよび新たな橋梁建設のための予算160万円(上淀川橋梁分を含む)の協賛を受けて、1900年(明治33年)に下淀川橋梁に着工した。 日本の鉄道では、創業以来イギリス人の技術者に指導を受けて発展しており、下十三川橋梁がそうであったように、橋梁もイギリス人の設計やイギリスの会社の製造によるものがほとんどであった。しかし、合理的なアメリカ式の橋梁の影響は次第に日本にも浸透し、さらに機関車の大型化が進展すると、従来のイギリス製の桁では強度が不足することから、より頑丈な橋への架け替えが必要となってきた。イギリス人の建築師長チャールズ・ポーナルが1896年(明治29年)に帰国すると、早速1898年(明治31年)にはアメリカのセオドア・クーパーとチャールズ・シュナイダーに対してアメリカ流の標準トラス桁の設計が委嘱された。こうして設計された100フィート(約30.3メートル)複線下路プラットトラスが23連、下淀川橋梁に架設されることになった。トラスを製作したのはAアンドP・ロバーツペンコイド工場である。設計上の活荷重は、重量206,000ポンド(約93.4トン)の1D型テンダー機関車重連に、1フィートあたり3,000ポンド(約1.36トン)の荷重が続く前提で計算され、クーパー荷重にしてE29に相当する。また単線上路鈑桁(桁橋)22.25メートルを1連×複線で合わせて架設し、全長は773.0メートルとなった。下部構造は、煉瓦を使った井筒(ケーソン)を15メートルの位置まで沈下させて構築した。 1902年(明治35年)2月に竣功した。決算額は、上淀川橋梁および関連する線路の付け替えを含めて155万5366円であった。新淀川の放水路自体は1909年(明治42年)に全面完成した。
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