1903-07年、「ディスカバリー遠征」と「ニムロド遠征」の間
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「アーネスト・シャクルトン」の記事における「1903-07年、「ディスカバリー遠征」と「ニムロド遠征」の間」の解説
シャクルトンは、ニュージーランドで療養した後、サンフランシスコとニューヨークを経てイギリスへ帰った。彼は南極から戻った最初の重要人物として、引っ張りだこになった。特に海軍は「ディスカバリー号」救出計画について彼の助言を望んだ。クレメンツ・マーカム卿の賛同を得て、第二の「ディスカバリー号」救出作戦、「テラノヴァ号」の一隊を支援する臨時ポストに就いたが、一等航海士として同船に乗船する提案は断った。また、船が座礁したオットー・ノルデンショルド(英語版)指揮のスウェーデン南極探検隊(英語版)救出に向けて準備中であったアルゼンチンのコルベット「ウルグアイ(英語版)」を手伝った。シャクルトンは、より安定した職を求めてイギリス海軍に補充者リストという裏口ルートで正規任務に応募したが、王立協会の会長であるマーカムの支援に関わらず、職を得ることはできなかった。代わりにジャーナリストとなり「ローヤル・マガジン(英語版)」で働いたが、この仕事に不満であった。その後王立スコットランド地理協会の理事に応募し、1904年1月11日にその職に就いた。1904年4月9日に裕福な弁護士の娘、エミリー・ドーマン(Emily Dorman)と結婚し、3人の子供:レイモンド、セシリー、後に政治家となるエドワードを儲けた。 1905年、シャクルトンはロシア軍を極東から本国へ輸送することを目論んだ投機的会社へ出資した。妻エミリーに「契約は間違いない」と保証したにもかかわらず、何も得るものはなかった。また政界にも飛び込み、アイルランド自治法に反対して1906年イギリス総選挙に自由統一党の候補としてダンディー(英語版)選挙区から出馬したが落選した。その間に、クライド地方の富裕な実業家のウィリアム・ベアードモア(英語版)(後のインヴァーネアルン卿)の下、顧客になりそうな人物の面接やベアードモアのビジネス上の友人たちを楽しませる仕事をした。しかしシャクルトンは、もうこのときには遠征隊の隊長として南極へ向かう大望を隠そうとはしていなかった。 ベアードモアは資金支援を申し出てシャクルトンを感動させた。しかし他の寄付を集めるのは難しかった。それにもかかわらず、シャクルトンは王立地理学会に南極遠征計画を発表。ニムロド遠征という名の遠征の詳細は王立協会の会報『Geographic Journal』に掲載された。この遠征は、南極点と南磁極、両方の征服を目標としていた。シャクルトンは裕福な友人たちや寄付してくれる知人を精力的に説得した。その中には、ニムロド遠征への参加を求め2,000ポンド(2011年の価値で157,000ポンド)を寄付したサー・フィリップ・リー・ブロックルハースト(英語版)、作家のキャンベル・マッケラー(Campbell Mackellar)、ニムロド号が出発する2週間以内になって寄付したギネス男爵アイヴァー卿がいた。1907年8月4日には、第4等ロイヤル・ヴィクトリア勲章(MVO、現在のルテナント)を授与された。
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