1804年-1806年とは? わかりやすく解説

1804年 - 1806年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 05:10 UTC 版)

大陸軍 (フランス)」の記事における「1804年 - 1806年」の解説

大陸軍当初大西洋岸軍(L'Armee des cotes de l'Ocean)として組まれた。イギリスへ侵攻目ざし1803年ブローニュの港に集結した。しかし1804年ナポレオンフランス皇帝戴冠式に対して第三次対仏大同盟結成され1805年ナポレオンロシアオーストリアフランス侵略する準備をしていることを知ると急遽その視線を東に向けた。彼は大陸軍すぐさまライン川渡り南ドイツに入ることを命じた大陸軍8月遅くブローニュ出発し急速に行軍しウルム要塞でカール・マック将軍孤立したオーストリア軍包囲した。そこでおこなわれたウルム戦役では、フランス軍損害2,000名に対し60,000名のオーストリア兵士捕虜となった11月にはウィーン占領されたが、オーストリア抵抗止めず野戦での軍隊維持していた。また同盟国ロシアはまだ戦闘加わっていなかった。1805年12月2日アウステルリッツの戦い数的に劣勢であった大陸軍アレクサンドル1世率いロシア=オーストリア連合軍打ち破った。この見事な勝利によって、12月26日プレスブルクの和約結ばれ翌年神聖ローマ帝国解体された。 中部ヨーロッパにおけるフランス勢力増大は、前年戦争中立立場取ったプロイセン不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンロシア軍事的な援助をすることを約束し1806年第四次対仏大同盟結成された。大陸軍プロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形方陣である。この時軍団同士互いに支援し合う距離を保って行軍し時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日イェナ戦いアウエルシュタットの戦いプロイセン軍徹底的に叩き潰した伝説にも残る追撃戦プロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者25,00名に上ったルイ=ニコラ・ダヴー将軍第三軍団アウエルシュタット戦勲ベルリン最初に入場する栄誉浴した。しかしフランス軍は再び同盟軍到着する前に敵を叩いたので、敵はその後抵抗続け、平和は訪れなかった。

※この「1804年 - 1806年」の解説は、「大陸軍 (フランス)」の解説の一部です。
「1804年 - 1806年」を含む「大陸軍 (フランス)」の記事については、「大陸軍 (フランス)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1804年-1806年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1804年-1806年」の関連用語

1804年-1806年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1804年-1806年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの大陸軍 (フランス) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS