1804年 - 1806年
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「大陸軍 (フランス)」の記事における「1804年 - 1806年」の解説
大陸軍は当初、大西洋岸軍(L'Armee des cotes de l'Ocean)として組まれた。イギリスへの侵攻を目ざし、1803年にブローニュの港に集結した。しかし1804年のナポレオンのフランス皇帝戴冠式に対して第三次対仏大同盟が結成され、1805年にナポレオンはロシアとオーストリアがフランスを侵略する準備をしていることを知ると急遽その視線を東に向けた。彼は大陸軍にすぐさまライン川を渡り南ドイツに入ることを命じた。大陸軍は8月遅くにブローニュを出発し、急速に行軍してウルムの要塞でカール・マック将軍の孤立したオーストリア軍を包囲した。そこでおこなわれたウルム戦役では、フランス軍の損害2,000名に対し、60,000名のオーストリア兵士が捕虜となった。11月にはウィーンが占領されたが、オーストリアは抵抗を止めず、野戦での軍隊を維持していた。また同盟国のロシアはまだ戦闘に加わっていなかった。1805年12月2日、アウステルリッツの戦いで数的には劣勢であった大陸軍がアレクサンドル1世の率いるロシア=オーストリア連合軍を打ち破った。この見事な勝利によって、12月26日のプレスブルクの和約が結ばれ、翌年、神聖ローマ帝国は解体された。 中部ヨーロッパにおけるフランスの勢力の増大は、前年の戦争で中立の立場を取ったプロイセンを不安にさせた。政治的な駆け引きの後に、プロイセンはロシアに軍事的な援助をすることを約束し、1806年の第四次対仏大同盟が結成された。大陸軍はプロイセン領に侵入したが、このとき取った陣形が方陣である。この時軍団同士が互いに支援し合う距離を保って行軍し、時には前衛にも、後衛にも、また側面を守る部隊にもなり、1806年10月14日、イェナの戦いとアウエルシュタットの戦いでプロイセン軍を徹底的に叩き潰した。伝説にも残る追撃戦でプロイセン軍捕虜140,000名を掴まえ、死傷者は25,00名に上った。ルイ=ニコラ・ダヴー将軍の第三軍団がアウエルシュタットの戦勲でベルリンに最初に入場する栄誉に浴した。しかしフランス軍は再び同盟軍が到着する前に敵を叩いたので、敵はその後も抵抗を続け、平和は訪れなかった。
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