トミー・リー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/10 01:18 UTC 版)
トミー・リー Tommy Lee |
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トミー・リー(2012年)
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基本情報 | |
出生名 | Thomas Lee Bass |
生誕 | 1962年10月3日(62歳)![]() |
出身地 | ![]() |
ジャンル | ロック、ハードロック、グラム・メタル |
職業 | ミュージシャン、ソングライター |
担当楽器 | ドラム、ボーカル、ピアノ、ギター |
活動期間 | 1979年 - |
レーベル | Leathür、エレクトラ |
共同作業者 | モトリー・クルー メソッズ・オブ・メイヘム ロック・スター・スーパーノヴァ |
公式サイト | www |
トミー・リー(Tommy Lee、1962年10月3日 - )は、モトリー・クルーのオリジナル・ラインナップのドラマー。一時脱退するが、ラッパー、モデル、大学生を経て、2005年のワールド・ツアーより復帰する。本名トーマス・リー・バス(Thomas Lee Bass)。身長188cm。
略歴
ギリシャのアテネで、元ミス・ギリシャであった母と、ウェールズ系のアメリカの軍人デヴィッド・リー・トーマスの間に生まれる[1]。トミーが生まれた後すぐに、カリフォルニア州へ移住。4歳の時に初めてドラムに触れる。妹は母の祖国の首都からとった名前=アテネで、兄と同じくドラマーである(ジェイムズ・コタックの妻)。
父親がマーチング・バンドでドラムをプレイしていたこともあり、ティーンエージャーの時にはドラムをプレイしていた。そのころはキッスやディープ・パープル、レッド・ツェッペリンやジューダス・プリースト等を好んで聴いていた。
サウスヒルズ高校から、ロイヤルオーク高校へ転校し、その頃、マーチング・バンドに加入して演奏していたが、年長になった頃、音楽の道を目指し高校を中退する。
1970年代後半、トミーは「Suite 19」というバンドで名前を売り始める。当初、バンドでは早弾きギタリストのグレッグ・レオンと一緒だった。サンセット大通りやロサンゼルスなどでプレイを続け、その頃、メタルバンドで人気を博していたニッキー・シックスと出会う。ニッキーは、ドラマティックなメタルバンドを作りたいと考えていたらしく、その頃のトミーのプレイを気に入り、ニッキー、トミー、グレッグの3人でジャムを始めるが、グレッグには続ける気はなかった。
その頃、ニッキーがトミーに「T-Bone」という新しい名前を付け、それを気に入りしばらく使用していた。そしてミック・マーズは『リサイクラー』という求人広告誌に「音がでかくて、野蛮で、攻撃的なギタリスト、います」と自分で自分を宣伝し、その広告を見たニッキーがミックに電話してオーディションをし、ギタリストとなる。ミックは、トミーの高校時代の友人で、ロック・キャンディで活躍していたヴィンス・ニールをボーカルに推薦し、結果ヴィンスが加入し、モトリー・クルーが結成されることになる。
2005年には自叙伝Tommyland[2]を発表している。
プレイスタイル
パワフルなプレイスタイルで、その後のドラマーに非常に大きい影響を与えることになるが、最も印象的とされるのが、アルバム『ガールズ、ガールズ、ガールズ』の「Wild Side」での、ドラムセットごと回転するパフォーマンスだった。最近では、スリップノットのジョーイ・ジョーディソンが、日本ではLUNA SEAの真矢が、同じパフォーマンスを披露した。
使用機材
1981年のモトリー・クルーでのデビューから1989年中頃まではパール社製のドラムに、パイステの2002シリーズシンバルを組み合わせていた。
デビューからアルバム『ガールズ、ガールズ、ガールズ』までは、24インチのツーバス、13・14インチのツータム、16・18インチのツーフロアに、2枚のチャイナシンバルを高い位置に置くのが特徴的なセッティングを継続していた。
ツーバスについては、それぞれのチューニングを変えられることを好む理由として挙げていた。
アルバム『ドクター・フィールグッド』からはDW社製にメーカーを変更し、併せてセッティングも、28インチのワンバス、14インチのタム、16・18インチのツーフロアにした。
アルバム『モトリー・クルー』からは、26インチのツーバス、12・13インチのツータム、16・18インチのツーフロアに変更。
アルバム『ジェネレーション・スワイン』からは、32インチのバスドラムに24インチのバスドラム、14インチのワンタム、16・18インチのツーフロアとしていた。また、シェルにファーを施した特殊仕様にしたりもしていた。
2000年代に入るとシンバルをジルジャンに切り替え、以後現在まで使用し続けている。
ドラム・スティックは、当初から、ナイロンチップのものを好んで使用しており、途中からヴィック・ファースで、赤いナイロンチップのシグニチャー・モデルを出していた。同社の2Bを伸長させたもので、現在はヘヴィメタル・モデルとなっている。その後、金属バットメーカーのイーストン・アヘッドから、本体はアルミ製・ショルダーが樹脂で、ナイロンチップのシグニチャーモデルを出し、現在に至る。
パーカッションも好み、特に、曲中での使用が効果的・特徴的なカウベルは、LPのものを、この他、アイスベルやタンバリン、ゴングなども使用する。
モトリー・クルー脱退について
1999年、妻パメラ・アンダーソンへの暴行容疑により逮捕、そして刑務所での生活を送ることになるが、その際にモトリー・クルーの脱退を発表。1999年のワールド・ツアーには同行せず、ラップ・メタルバンドのメソッズ・オブ・メイヘムを結成。数々のミュージシャンが参加したアルバムを発表。シングル「Get Naked」には当時人気の強かったリンプ・ビズキットのフレッド・ダーストが参加していたことで有名。その頃、大学に入学したり、映画出演をしたり、妻パメラ・アンダーソンとの家庭用ビデオが流出する等、メディアを騒がすことに関しては事欠かなかった。
トミーの脱退後、モトリー・クルー側はトミーを遠ざける発言や行動を取っていたが、2001年に発表したバンドの自叙伝『The Dirt』の参加に同意した。
その後、ロブ・ゾンビなどが参加したトミー・リー名義のアルバムを発表。2004年にモトリー・クルーへ復帰している。
トミー・リーを演じた人物
ディスコグラフィ
スタジオ・アルバム
- 『ネヴァー・ア・ダル・モーメント』 - Never a Dull Moment (2002年)
- 『トミーランド : ザ・ライド』 - Tommyland: The Ride (2005年)
- Andro (2020年)
モトリー・クルー
- 『華麗なる激情』 - Too Fast For Love (1981年)
- 『シャウト・アット・ザ・デヴィル』 - Shout At The Devil (1983年)
- 『シアター・オブ・ペイン』 - Theatre Of Pain (1985年)
- 『ガールズ、ガールズ、ガールズ』 - Girls, Girls, Girls (1987年)
- 『ドクター・フィールグッド』 - Dr. Feelgood (1989年)
- 『モトリー・クルー』 - Mötley Crüe (1994年)
- 『ジェネレーション・スワイン』 - Generation Swine (1997年)
- 『セインツ・オブ・ロスアンゼルス』 - Saints Of Los Angeles (2008年)
メソッズ・オブ・メイヘム
- 『メソッズ・オブ・メイヘム』 - Methods of Mayhem (1999年)
- 『ア・パブリック・ディスサーヴィス・アナウンスメント』 - A Public Disservice Announcement (2010年)
ロック・スター・スーパーノヴァ
- Rock Star Supernova (2006年)
参加アルバム
- リチャード・マークス : 『ラッシュ・ストリート』 - Rush Street (1991年)
- スチュアート・ハム : 『アージ』 - The Urge (1991年)
- ダルベロ : Whore (1996年) ※「Revenge of Sleeping Beauty」に参加
- ロブ・ゾンビ : 『ヘルビリー・デラックス』 - Hellbilly Deluxe (1998年)
- ロブ・ゾンビ : 『ザ・シニスター・アージ』 - The Sinister Urge (2001年)
- ジャックス・マネキン : 『エヴリシング・イン・トランジット』 - Everything in Transit (2005年)
- フォール・アウト・ボーイ : 『セイヴ・ロックンロール』 - Save Rock And Roll (2009年) ※「Death Valley」に参加
- フューエル : Angels & Devils (2007年)
- Figure : Monsters Volume 3 (2013年) ※「Pounds of Blood」に参加
- フォーリン・ベガーズ : 『ジ・アップライジング』 - The Uprising (2012年) ※「Minds Eye」に参加
- コートニー・ラブ : "You Know My Name"/"Wedding Day" (2014年) ※シングル
- スマッシング・パンプキンズ : 『モニュメンツ・トゥ・アン・エレジー』 - Monuments to an Elegy (2014年) ※全曲ドラム担当[5]
- ポスト・マローン : 『ビアボングズ&ベントレーズ』 - Beerbongs and Bentleys (2018年) ※「Over Now」に参加
脚注
- ^ “Tommy Lee Bio”. yuddy.com. 2008年2月28日閲覧。
- ^ Lee, Tommy; Bozza, Anthony (2005). Tommyland. London: Atria Books. ISBN 9781416502029
- ^ “モトリー・クルー トミー・リーの盆栽にニッキー・シックスが「Nice」と称賛”. amass.jp. 2022年7月29日閲覧。
- ^ “モトリー・クルーのトミー・リー、盆栽の「ジン」をマスターするために練習した結果を投稿”. amass.jp. 2022年7月29日閲覧。
- ^ Pattison, Louis: "Q&A", Uncut, January 2015, p67, ""I've known Tommy since 1992," explained Billy Corgan. "Didn't know him real well, but enough to call him up. He was like, 'The Pumpkins drumming style is a lot busier than I play.' But he heard it in demo form and said, 'I wanna play on all of them.' You can hear on tracks like 'Run To Me', where he did a lot of drum programming – he took real investment in the material."
外部リンク
トミーリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/16 14:54 UTC 版)
トミーリー | |
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欧字表記 | Tomy Lee |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1956年 |
死没 | 1971年 |
父 | Tudor Minstrel |
母 | Auld Aliance |
母の父 | Brantome |
生国 | ![]() |
生産者 | D. H. Wills |
馬主 | Mr. & Mrs. Fred Turner Jr. |
調教師 | Frank E. Childs(アメリカ) |
競走成績 | |
生涯成績 | 31戦14勝 |
獲得賞金 | 405,014ドル |
トミーリー(Tomy Lee、1956年 - 1971年)は、イギリス生産のサラブレッドの競走馬、種牡馬。アメリカ合衆国で競走馬となり、1959年のケンタッキーダービーなどに優勝した。
経歴
出生、幼駒時代
1956年にイギリスで生産された競走馬で、体高は16ハンド(約162.56センチメートル)と大柄で、体重も1000ポンド強あったという[r 1]。馬体は見栄え良く、また4本の脚すべてに白徴を持っていた[r 2]。
馬主となるフレッド・ターナー・ジュニアはテキサス州の出身で、本来はタルヤーの産駒を求めてイギリスに出向き、そこで25000ドルで目的のものを購入した。このとき、馬を1頭だけで輸送するのは馬にとって辛いものであるため、帯同馬として6762ドルで購入された幼駒がトミーリーであった[r 3][1]。馬名は本来「Tommy Lee」と名付けられる予定であったが、ありふれた名前ゆえに既に使われている可能性を考えて、mをひとつ抜いて登録することにした[r 4]。
若駒時代
デビューは2歳時からで、カリフォルニア州でハギンステークスやC・S・ハワードステークス、スターレットステークスにデルマーフューチュリティを含む6競走で連勝を挙げる活躍を繰り広げた。特にハギンステークスは8馬身差の圧勝で、またデルマーフューチュリティではロイヤルオービットを相手に3馬身差で勝っている。その後東海岸に遠征し、シャンペンステークスとガーデンステートステークスに出走しているが、ともにファーストランディングの2着に敗れている。
3歳時はやはりカリフォルニアからの始動であったが、年明け初戦のサンヴィンセントステークスでは2着に、続くサンフェリペハンデキャップでも2着に敗れている。しかし続くキーンランド競馬場での7ハロン(約1408メートル)の一般戦ではトラックレコードでの勝利を挙げ[r 5]、さらに翌戦のブルーグラスステークスでも優勝した。
1959年のケンタッキーダービー当日は72951人の観客が詰めかけた[r 6]。話題馬シルバースプーンやソードダンサーらも出走するなか、1番人気はファーストランディングが推され、ウィリー・シューメーカーを背に出走したトミーリーはそれに次いで単勝4.7倍の2番人気に支持された。トミーリーはスタートから先行するトロイラスという馬の後ろ2番手につけて進み、その馬が力尽きて後退すると先頭に立った。コーナーに差しかかるところでソードダンサーが詰め寄り、残り2ハロンというところで並びかけられた際には鞍上のシューメーカーも諦めかけたが、トミーリーは再び懸命に走りだし、2頭の激しい攻防が繰り広げられた[r 7]。2頭はほぼ同時にゴールし、18分ほどの審議と写真判定の結果、トミーリーが勝利をもぎ取った。シューメーカーは後に、残り1ハロンというところで2頭は接触したが、このときトミーリーの手前が変わり、より走りやすくなったことが勝因のひとつだと語っている[r 8]。
ケンタッキーダービー後はクラシック路線に残らず、西海岸に戻って6月のハリウッドパーク競馬場で行われるシネマハンデキャップへと登録された。しかし鞍上を務めていたシューメーカーが、ターナーの騎乗依頼に応じなかった[2]こともあり、前走で破ったシルバースプーンに敗れて着外へと沈んだ。
ターナーはシューメーカーと彼のエージェントの対応に憤り、抗議の意味を含めてトミーリーを半年の休養にあてた[r 9]。休養明けは翌年まであと2日まで迫った年の瀬で、ジョニー・ロングデンを鞍上にして6ハロン(約1207メートル)の一般戦で勝ちを挙げた。
その後
4歳になっても競走馬として活動したが、トミーリーは3歳の頃までのような走りを見せられなかった。この年4戦して2勝を挙げるが、年明けのサンカルロスハンデキャップやサンタアニタマーチュリティといったステークス競走では着外に沈んでおり、シーズン前半で引退して種牡馬となった。
ケンタッキー州の牧場で種牡馬入りしたものの、受胎率が非常に悪く、早くも種牡馬失格の扱いを受けた[r 10][3]。このため6歳になって競走馬に復帰することになり、復帰から7歳での再引退までに14戦を経験、ステークス競走勝ちこそ無いものの、4勝を挙げた。
引退後は牧場で過ごし、1971年に死亡した。遺骸はレキシントンのピラースタッドに埋葬されている。
評価
主な勝鞍
※当時はグレード制未導入
- 1958年(2歳) 8戦6勝
- ハギンステークス、C・S・ハワードステークス、スターレットステークス、デルマーフューチュリティ
- 2着 - シャンペンステークス、ガーデンステートステークス
- 1959年(3歳) 7戦4勝
- ケンタッキーダービー、ブルーグラスステークス
- 2着 - サンヴィンセントステークス、サンフェリペハンデキャップ
- 1960年(4歳) 4戦2勝
- 1962年(6歳) 1戦1勝
- 1963年(7歳) 13戦3勝
血統表
トミーリーの血統(オーエンテューダー系(ハイペリオン系) / Hyperion 3x3=25.00%、 Swynford 4x4=12.50%) | (血統表の出典) | |||
父
Tudor Minstrel 1944 青鹿毛 イギリス |
父の父
Owen Tudor1938 青鹿毛 イギリス |
Hyperion | Gainsborough | |
Selene | ||||
Mary Tudor | Pharos | |||
Anna Bolena | ||||
父の母
Sansonnet1933 鹿毛 イギリス |
Sansovino | Swynford | ||
Gondolette | ||||
Lady Juror | Son-in-law | |||
Lady Josephine | ||||
母
Auld Alliance 1948 栗毛 |
Brantome 1931 鹿毛 フランス |
Blandford | Swynford | |
Blanche | ||||
Vitamine | Clarissimus | |||
Viridiflora | ||||
母の母
Iona1943 栗毛 イギリス |
Hyperion | Gainsborough | ||
Selene | ||||
Jiffy | Hurry On | |||
Juniata F-No.1-n |
脚注
備考
- ^ 本来のお目当てであったタルヤー産駒はトゥレッグと名付けられ、実際に競走馬となっているが、2歳時は怪我により休養、3歳時には屈腱炎で引退と、成績を残さなかった。
- ^ この依頼を断って、シューメーカーはソードダンサーでベルモントステークスを制している。
- ^ 一応産駒は出しているものの、目立つ成績を挙げた馬はいなかった。
出典
参考文献
- The History of Thoroughbred Racing in America [p.531-539] (1964 著者: William H. P. Robertson 出版: Bonanza Books ASIN B000B8NBV6)
- ケンタッキー・ダービー・ストーリーズ [p.56-58] (1996 原著: ジム・ボウラス 翻訳: 桧山三郎 出版: 荒地出版社 ISBN 4-7521-0098-3)
外部リンク
- 85th Kentucky Derby - brisnet.com
- 競走馬成績と情報 netkeiba、JBISサーチ
トミー・リー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:37 UTC 版)
「ウィズアウト・ユー」はニッキーが、トミーとトミーの2番目の妻で女優のヘザー・ロックリアに捧げたものだったが、2人は破局。後にロックリアは、ボン・ジョヴィのリッチー・サンボラと再婚。トミーはウォレントのジェイニー・レインの元妻でモデルのボビー・ブラウンと婚約した後、ポイズンのブレット・マイケルズの元恋人でプレイメイト・女優のパメラ・アンダーソンと再婚。 付き合っていたボビー・ブラウン、妻だったパメラ・アンダーソンからそれぞれドメスティックバイオレンスで訴えられたことがあり、アンダーソンに訴えられたときは禁固刑で収監された。 当時の妻パメラ・アンダーソンとの性行為を映したプライベート・ビデオが流出したことがある。 ド派手なドラム・ソロで有名なトミーだが、ショーの最中に高所のドラムセットから落下、意識を失ったことがある(ワイヤーで吊るされたトミーがドラムセットから飛び降り、床ぎりぎりで止まった後再び空中のドラムセットへ飛び移る、という演出だったが、落下時にワイヤーを止めるのが間に合わなかった)。 あるツアー中滞在したホテルで、ドラッグとアルコールで正気を失ったトミーは全裸で廊下を走り回った。しかし逮捕されたのはなぜかマーズだったと言う、嘘のような本当の話がある。
※この「トミー・リー」の解説は、「モトリー・クルー」の解説の一部です。
「トミー・リー」を含む「モトリー・クルー」の記事については、「モトリー・クルー」の概要を参照ください。
「トミー・リー」の例文・使い方・用例・文例
- トミー・リー・ジョーンズとウィル・スミスの最高のチームが,「メン・イン・ブラック2」で,エージェントKとJとして帰ってきた。
- 宝の所在を知るただひとりの人物はエージェントK(トミー・リー・ジョーンズ)だ。
- 世界中で大ヒットしたSFアクション映画シリーズの第3弾となるこの作品で,ウィル・スミスがエージェントJを,トミー・リー・ジョーンズがエージェントKの役を再び演じる。
- 奴隷解放急進派の議員,タデウス・スティーブンス(トミー・リー・ジョーンズ)はリンカーンが妥協して,奴隷制度が続くことを認めるのではないかと心配している。
固有名詞の分類
サラブレッド |
ディストーテッドヒューマー メジロブライト トミーリー ニシノライデン ウイザート |
アメリカ合衆国調教の競走馬 |
ファーラップ ディストーテッドヒューマー トミーリー フーワイ トムロルフ |
イギリス生産の競走馬 |
ピヴォタル オーモンド トミーリー ポテイトーズ バザード |
1956年生 (競走馬) |
シルバースプーン ウイルデイール トミーリー セントクレスピン サチカゼ |
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