カトリック信仰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:05 UTC 版)
「ジェームズ2世 (イングランド王)」の記事における「カトリック信仰」の解説
17世紀のイングランドにおいて、王がカトリックを信仰することは、イングランド固有の法と伝統の破壊者、そして絶対王政を布く暴君といった烙印を押されることを意味した。元々イングランド人はカトリックを好んでいなかったが、ルイ14世のカトリック寄りの政策は、カトリックが王につくと議会・法を無視して絶対王政に走るという偏見を助長した。ジェームズがカトリックを信仰したことは当時のイングランドにとって由々しき問題であった。 ヨーク公ジェームズがカトリック信仰になったのは1668年から1669年、35歳前後のころと考えられている。このことはしばらく伏せられていたが、ジェームズの信仰に対する疑惑は次第に広がり、特に宮廷にカトリックの影響が及ぶことを懸念する声が高まった。反カトリック感情に押されて議会は1673年改正審査法を成立させ、文官・武官の役職につく者に以下の手続きを求めた。 化体説を否認すること。(化体説とはカトリックの教理のひとつで、ぶどう酒とパンがキリストの血と体になるとするもの。) 宣誓においてカトリック教会を「迷信深く怠惰」であると明言すること。 イングランド国教会の聖餐を受けること。 ジェームズは海軍総司令官の職を続けるにあたって、これらの手続きを求められ、拒絶して職を辞した。これによってジェームズのカトリック信仰は公然の秘密となった。 兄であり王であったチャールズ2世はジェームズの転向に反対し、ジェームズの子らをプロテスタントとして育てるように命じた。しかし一方で1673年、先妻を亡くしたジェームズ(当時40歳)の再婚相手にカトリックのメアリー・オブ・モデナを選ぶことを許した。イングランドの人々の間で、この新しいヨーク公夫人はローマ教皇の手先ではないかという噂が立った。 1677年(ジェームズ44歳)、ジェームズは長女のメアリー(後のメアリー2世)をプロテスタントの甥オラニエ公ウィレム3世(後のウィリアム3世)に娶せたが、これは国内の反カトリック圧力を受けてのことであった。こうした妥協にもかかわらず、チャールズ2世妃キャサリンが流産してジェームズの王位継承が現実味を帯びてくると、カトリックへの敵意は収まらなかった。1678年には陰謀の捏造騒ぎ(カトリック陰謀事件)がおこり、ロンドンは反カトリックの集団ヒステリー状態に陥った。議会ではジェームズの王位継承を阻もうとする王位排除法案が3度にわたって提出され上下両院で紛糾したが、チャールズ2世の機転でこの法案は廃案となった。
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