黄金時代、そして撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 19:36 UTC 版)
「トヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパ」の記事における「黄金時代、そして撤退」の解説
1983年、トヨタのモータースポーツ活動再開により、本格的にワークス活動を開始する。当時のWRCのグループB規定車両では苦戦したが、サファリラリーでは1984年から3連覇を達成する。1987年にグループA規定が導入されると、翌1988年より4輪駆動のセリカGT-Fourを投入する。またこの頃、TTEは活動範囲を広げ、MERC(中東ラリー選手権)でモハメド・ビン・スレイヤンを四度のタイトルに導いている。しかし1987年、トヨタが香港-北京ラリーを制した数日後にアイボリーコーストで起きた飛行機墜落事故により、ラリーコーディネーターとして辣腕を振るっていたヘンリー・リドンが事故死。この事故はTTEの体質を大きく変貌させたといわれている。 1990年代に入るとその活動は黄金期を迎える。1990年にカルロス・サインツが宿敵ランチアを打ち破り、FIA世界選手権で日本車メーカーとして初めてドライバーズチャンピオンとなった。なお、サインツとセリカは同年アジアパシフィックラリー選手権 (APRC) でもドライバーズタイトルを獲得している。 1992年にもサインツがWRCのドライバーズタイトルを獲得。1993年にはユハ・カンクネンのドライバーズタイトルに加え、FIA世界選手権で日本車メーカーとして初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得して、さらにWRCでのダブルタイトルも達成。翌1994年もドライバーズ(ディディエ・オリオール)とメイクスの2冠を達成した。王者ランチアの牙城を崩したチームは、TTEの拠点にちなんでケルン・コマンドの異名をとった。 このようにST165型以降のセリカGT-Fourは成功を収める一方、新型投入のたびベース車両の肥大化が著しいことを懸念したTMG側は、1992年11月にセリカST185型とカローラFXのボディを用いた二種類のIS(Ideal Successor、『理想的な後継者』の意)と呼ばれる、ラリーで勝つことを目標とした量産車のコンセプトカーを作成し、トヨタ本社に提案した。しかしバブル崩壊直後であったため、採用されることはなかった。 1993年7月にはトヨタがアンダーソン・モータースポーツGmbHを買収し、ここに「トヨタ・モータースポーツ有限会社 (TMG) 」が誕生した(チーム名はTTEを継続)。 しかし1995年、TTEはシーズン中にリストリクターに関するレギュレーション違反が発覚し、シーズン全ポイントの剥奪、および翌1996年シーズンの1年間出場停止という処分を受ける。これはトヨタ本社では関知していなかったことで、事件後TMGの存続やアンダーソンの責任問題が議論されたが、1997年もWRC参戦を自粛するかたちで決着した。TTEは2年間の休止期間中に新規定の「ワールドラリーカー」(WRカー)としてカローラWRCを開発した(1997年には非公式でテスト参戦)。また、1996年にST205はヨーロッパラリー選手権(ERC)のアルミン・シュヴァルツに供給され、総合チャンピオンを獲得している。 1998年よりWRCに正式に復活し、1999年には3度目のメイクスタイトルを獲得する。しかし99年初頭にトヨタがF1への参戦を決定していたため、同年限りで27年間のWRC活動に終止符を打った。
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