魏・晋との外交とは? わかりやすく解説

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魏・晋との外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:41 UTC 版)

邪馬台国」の記事における「魏・晋との外交」の解説

魏志倭人伝」には、帯方郡通じた邪馬台国と魏との交渉記録されている。女王景初2年238年以降帯方郡通じ数度わたって魏に使者送り皇帝から親魏倭王任じられた。正始8年248年)には、使者狗奴国との紛争報告しており、帯方郡から塞曹掾史張政派遣されている。詳細以下の通り建安年間196年-220年公孫康屯有以南荒地一部帯方郡置いた後漢遺民集めるため公孫模張敞などを派遣し兵を興して韓と濊を討伐したが、後漢の旧民は少ししか見い出せなかった。この後、倭と韓は帯方郡服属した。 景初2年238年)、魏の明帝は劉.mw-parser-output .jis2004font{font-family:"源ノ角ゴシック JP Normal","源ノ角ゴシック JP","Source Han Sans Normal","Source Han Sans","NotoSansJP-DemiLight","Noto Sans CJK JP DemiLight","ヒラギノ角ゴ ProN W3","ヒラギノ角ゴ ProN","Hiragino Kaku Gothic ProN","メイリオ",Meiryo,"新ゴ Pr6N R","A-OTF 新ゴ Pr6N R","小塚ゴシック Pr6N M","IPAexゴシック","Takaoゴシック","XANO明朝U32","XANO明朝","和田中丸ゴシック2004絵文字","和田中丸ゴシック2004ARIB","和田中丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシック2004絵文字","和田研細丸ゴシック2004ARIB","和田研細丸ゴシック2004P4","和田研細丸ゴシックProN",YOzFont04,"IPA Pゴシック","Yu Gothic UI","Meiryo UI","MS Pゴシック";font-feature-settings:"jp04"1}昕を帯方太守鮮于嗣楽浪太守任じ、この両者海路帯方郡楽浪郡それぞれ収めた『三国志』魏書東夷伝序文)。6月 または景初3年239年6月女王大夫難升米と次使の都市牛利帯方郡派遣し天子拝謁願い出た帯方太守劉夏は彼らを都に送り使者は男の生口奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた12月悦んだ魏の皇帝景初2年だとすると明帝12月8日から病床27日曹宇罷免詔勅直筆できなかった。-『三国志』裴注引用 習鑿歯漢晋春秋』)景初3年だとすると曹芳)は女王親魏倭王とし、金印紫綬授けとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えたまた、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。 8月23日帯方郡楽浪郡支配していた公孫淵司馬懿により斬首される。 帯方郡楽浪郡が魏に占領される景初3年239年春正月丁亥日(1月1日明帝崩御『三国志』魏書明帝紀)。 正始元年240年帯方太守弓遵建中校尉梯儁らに詔書印綬持たせて倭国派遣し倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた正始4年243年12月女王俾彌呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り生口と布を献上皇帝斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。 正始6年245年皇帝斉王)は帯方郡通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。 正始6年245年帯方太守弓遵楽浪太守劉茂嶺東遠征して濊を討った後、郡内韓族反乱して崎離営を襲ったため、軍を出して韓族討ち滅ぼした弓遵戦死した正始8年247年女王太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦いについて報告太守は塞曹掾史張政らを倭国派遣した女王就いた壹与は、帰任する張政掖邪狗20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女生口30人白珠5,000孔、青大句珠2枚異文の雑錦20匹を貢いだ。 また魏志倭人伝記述によれば朝鮮半島国々とも使者交換してたらしいこの後『日本書紀』の「神功皇后紀」所引の『晋起居注』(現存しない)に、泰初(泰始誤り2年266年)に倭女王使者送り朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝紀にも泰始2年倭人朝貢したとあるので(女王という記述は無いが)現在では、時代的考えるとこの女王は神功皇后ではなく邪馬台国壹與であり、新女王壹與が魏に代って成立した晋の皇帝武帝)に朝貢したと考えられる。なお、266年頃は近畿ヤマト王権では崇神天皇時代考えられている。

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魏・晋との外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:09 UTC 版)

魏志倭人伝」の記事における「魏・晋との外交」の解説

景初2年6月238年)に女王大夫難升米と次使の都市牛利帯方郡派遣して天子拝謁することを願い出た帯方太守劉夏は彼らを都に送り使者は男の生口奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈を献じた12月皇帝はこれを歓び女王親魏倭王為し金印紫綬授け銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え難升米を率善中郎将為し、牛利を率善校尉為した景初3年1月1日12月8日から病床についていた(『三国志』裴注引用 習鑿歯漢晋春秋』)魏の皇帝である明帝曹叡)が死去斉王次の皇帝となった正始元年240年)に帯方太守弓遵建中校尉梯儁らを詔書印綬持って倭国派遣し倭王の位を仮授して下賜品を与えた正始4年243年)に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り奴隷と布を献上皇帝斉王)は掖邪狗らを率善中郎将為した正始6年245年)、皇帝斉王)は、帯方郡通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した。しかし同年からの濊との戦いに続く韓との戦いにおいて、太守弓遵戦死しているため、実行されていない正始8年247年)、新太守の王(斤+頁)が着任する女王は載斯烏越を使者として派遣して狗奴国との戦い報告した太守は塞曹掾史張政らを倭国派遣したが、この派遣同年の倭の報告よるものではなく正始6年の詔によるもの女王についた壹與正始8年派遣時点で既に女王壹與である可能性がある)は掖邪狗20人に張政帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女生口30人白珠5000孔、青大句珠2枚異文の雑錦20匹を貢いだまた、『日本書紀』の「神功紀」は、晋武帝泰初2年泰始2年266年)の誤り)の『晋起居注』(現存しない)に泰初2年10月、倭の女王通訳重ねて貢献したとの記述があるとしている。現存する『晋書』武帝紀には、泰始2年11月倭人朝貢したという記事があり、四夷伝には泰始初めに倭人通訳重ねて朝貢したともあるので(女王とは書かれていないが)、この女王は壹與考えられている。魏に代って成立した晋の皇帝武帝)に朝貢したもの考えられる

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