魏・晋の圧迫と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 14:44 UTC 版)
263年、魏の司馬昭が派遣した軍により蜀の都の成都が陥落し、遂に三国の一翼が崩れた(蜀漢の滅亡)。同時に呉では交州が離反した。魏の蜀侵攻に対して呉からも兵を送り、蜀の救援、それがだめなら蜀の領土を少しでも奪うことを目指したが、いずれも失敗し、強大化した魏(司馬氏政権)とまともに国境を接することになった。 翌年に孫休が崩御し、孫休の子供はまだ幼いことから孫権の三男で廃太子であった孫和の子の孫晧が擁立された。孫晧は聡明な文武両道の人物と謳われており、擁立した濮陽興と張布の期待もそこにかかっていた。しかしこれは呉にとって最悪の決定であった。 孫晧はまず、閣僚の一新と父の孫和への皇帝号の追号をし、食料開放による貧民救済などを行ったが、その後刑法を乱用し孫休の妻と息子たちを皆殺しにし、莫大な費用を投じて武昌への遷都を行いそこに壮麗な宮殿を建てた末、その翌年には再び建業へと都を戻すということを行った。 武昌への遷都を行った265年、司馬炎が魏の皇帝曹奐より禅譲を受けて晋を建てた。呉にとっては幸いなことに司馬炎即位直後の晋ではすぐに遠征軍を繰り出すことはせず、呉は孫晧の政治で腐敗はしていたが、まだしばらくの平和を得た。 271年、虞汜・陶璜らは交州の晋軍を破り、交阯郡・九真郡・日南郡を取り戻した。 この頃になると国内では孫晧に対する反乱も起きるようになるが、孫晧は省みずに後宮に数千と言う美女を集め、逆らう家臣は拷問して殺していた。そんな中で陸遜の息子の陸抗や朱績や丁奉が呉の防衛を支えていた。272年には歩闡が呉に背き、西晋に寝返ったが、陸抗がこの反乱を鎮圧した(西陵の戦い)。270年に朱績が、271年には丁奉が、さらに274年に陸抗が死去すると、もはや呉には柱となる人材はいなくなった。 そして279年、広州で郭馬が反乱を起こした。反乱を鎮圧できないでいるうちに、晋は20万という大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。呉の将兵には孫晧に見切りをつけ、戦わずして晋に降る者も多く、280年3月に晋軍は建業に達して孫晧は降伏、呉は滅亡した。
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