魏・晋の時代とは? わかりやすく解説

魏・晋の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)

劉聡」の記事における「魏・晋の時代」の解説

幼い頃から聡明学問好み教育当たっていた博士紀からはただ者ではないと称賛された。 14歳になると、経史経書史書)・百家学問孫武呉起兵法精通するようになり、これらで暗誦出来ないものは無かった文章才能もあり、草書隷書巧みにこなした著述した懐詩(自らの心情を表す詩)は100篇を越え、賦や頌(詩経分類)は50篇を越えた15歳時には武芸を習うようになった。非常に長い腕持っていた事から特に弓術秀で300斤の弓を扱うことが出来た。その逞しさ俊敏さ当時並ぶものがいない程であった魏晋王朝重臣であり、父劉淵親友でもある王渾は、劉聡と会うなり大い喜び劉淵へ「この子の力は私には測りしれぬ」と語ったという。 20歳になると洛陽へ遊学し多く名士交流深め朝廷第一人者である楽広・張華より大い評価された。 後に新興郡太守郭頤より招聘を受け、その主簿となった。郭頤からは良将孝廉始めとする察挙科目一つ)として推挙され、驍騎別部司馬取り立てられた。さらに昇進して右部都尉となると、民百姓をよく慰撫して受け入れ五部匈奴豪族従わないものはいなかった(当時匈奴諸部族魏晋王朝服属して并州領内居住しており、左部・右部・南部北部中部五つ分けられていた。これを五部匈奴という)。 やがて朝廷権力者である河間王司馬顒の上表により、赤沙中将に任じられた。 当時、父の劉淵は鄴を統治する成都王司馬穎に仕えていたが、晋国内では政変による功臣粛清相次いでいたので、劉聡劉淵もまた司馬穎殺されるではないか不安になった。その為、彼は司馬顒の下から離反し、父のいる鄴へ移った司馬穎からは右積弩将軍・参前鋒戦事に任じられ、軍の前鋒となって戦争参与した304年8月右賢王立てられた。劉淵司馬穎から離反して郷里帰還すると、劉聡もこれにつき従った匈奴根拠地である左国城に到着すると、劉淵は従祖の劉宣らより上大単于称号授かり劉聡もまた改めて鹿蠡王とされた。

※この「魏・晋の時代」の解説は、「劉聡」の解説の一部です。
「魏・晋の時代」を含む「劉聡」の記事については、「劉聡」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「魏・晋の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「魏・晋の時代」の関連用語

魏・晋の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



魏・晋の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの劉聡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS