魏・晋の時代
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幼い頃から聡明で学問を好み、教育に当たっていた博士朱紀からはただ者ではないと称賛された。 14歳になると、経史(経書・史書)・百家の学問・孫武・呉起の兵法に精通するようになり、これらで暗誦出来ないものは無かった。文章の才能もあり、草書・隷書を巧みにこなした。著述した懐詩(自らの心情を表す詩)は100篇を越え、賦や頌(詩経の分類)は50篇を越えた。 15歳の時には武芸を習うようになった。非常に長い腕を持っていた事から特に弓術に秀で、300斤の弓を扱うことが出来た。その逞しさと俊敏さは当時並ぶものがいない程であった。魏晋王朝の重臣であり、父劉淵の親友でもある王渾は、劉聡と会うなり大いに喜び、劉淵へ「この子の力は私には測りしれぬ」と語ったという。 20歳になると洛陽へ遊学し、多くの名士と交流を深め、朝廷の第一人者である楽広・張華より大いに評価された。 後に新興郡太守郭頤より招聘を受け、その主簿となった。郭頤からは良将(孝廉を始めとする察挙科目の一つ)として推挙され、驍騎別部司馬に取り立てられた。さらに昇進して右部都尉となると、民百姓をよく慰撫して受け入れ、五部匈奴の豪族で従わないものはいなかった(当時、匈奴の諸部族は魏晋王朝に服属して并州領内に居住しており、左部・右部・南部・北部・中部の五つに分けられていた。これを五部匈奴という)。 やがて朝廷の権力者である河間王司馬顒の上表により、赤沙中郎将に任じられた。 当時、父の劉淵は鄴を統治する成都王司馬穎に仕えていたが、晋国内では政変による功臣粛清が相次いでいたので、劉聡は劉淵もまた司馬穎に殺されるのではないかと不安になった。その為、彼は司馬顒の下から離反し、父のいる鄴へ移った。司馬穎からは右積弩将軍・参前鋒戦事に任じられ、軍の前鋒となって戦争に参与した。 304年8月、右賢王に立てられた。劉淵が司馬穎から離反して郷里に帰還すると、劉聡もこれにつき従った。匈奴の根拠地である左国城に到着すると、劉淵は従祖の劉宣らより上大単于の称号を授かり、劉聡もまた改めて鹿蠡王とされた。
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