魏志倭人伝と卑弥呼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 07:59 UTC 版)
詳細は「魏志倭人伝」および「卑弥呼」を参照 この大乱は、邪馬臺國/邪馬壹國(邪馬台国参照)に居住する卑弥呼が倭国王に就くことで収まった。卑弥呼は240年代に亡くなり、その次は男子が倭国王となったが再び内乱が生じ、女子の臺與/壹與(台与参照)が倭国王となって乱は終結した。このように、弥生後半の倭国では、巫女的な女子が王位に就くことがたびたびあった。 『三国志』魏書東夷伝倭人条、いわゆる魏志倭人伝には邪馬台国をはじめ、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国などの諸国についてかなり詳細な記述がみられる。不弥国から投馬国までは水行20日で到着し、投馬国から邪馬台国までは南へ水行10日陸行1月で到着する。邪馬臺國王卑弥呼も魏の国に朝貢し親魏倭王の称号を授かった。 台与以後、しばらく倭国による中国王朝への朝貢の記録は途絶えていた。国造本紀によれば、120以上の国造が日本列島の各地にいて、地域国家が形成されていた。 そのなかで、古墳時代4世紀前半までには連合し成立したとされるヤマト王権の王たちは対外的に「倭王」「倭国王」を称したが、初期のヤマト王権は地域国家の諸豪族の連合政権であり、専制王権や王朝ではなかった。地域国家の王たちが、対外的に倭国王と称したこともあったと思われる。 4世紀後期ごろからは東晋など南朝への朝貢がみられるようになり、この南朝への朝貢は5世紀末頃まで断続的に行われた。これが『宋書』に記された「倭の五王」であり、讃、珍、済、興、武という5人の王が知られる。 倭国王は、大陸南朝の王朝に対しては倭国王もしくは倭王と称し、国内的には熊本県の江田船山古墳出土の鉄剣の銘文に「治天下獲□□□鹵大王」とあるように、王または大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)と称した。
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