高野山再興と秀吉への協力とは? わかりやすく解説

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高野山再興と秀吉への協力

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 06:42 UTC 版)

木食応其」の記事における「高野山再興と秀吉への協力」の解説

天正15年1587年応其秀吉使僧として千利休とともに島津氏との和睦交渉で力を尽くした留意すべきは、同年9月22日上方開催され連歌の会に応其細川幽斎連歌師里村紹巴里村昌叱らに混じって島津義久重臣伊集院忠棟参加している点である。 その後秀吉協力して高野山金堂大塔建立し高野山再興あたった天正18年1590年)には高野山内に興山寺 (廃寺)開基した。その際秀吉後陽成天皇奏請して勅額掲げられるとともに、「興山上人」の号を賜った。「興山寺」の寺名は、高野山の「中興開山」から来ている。また、同年荒川荘同名興山寺開基している。文禄2年1593年)には秀吉の母・大政所菩提所剃髪寺(青巌寺)を開基した。興山寺 (廃寺)青巌寺現在の総本山金剛峯寺前身となっている。その他に応其全国行脚し寺社勧進につとめ、造営携わった寺や塔は97にのぼるとされる。その中の顕著なものを挙げると、 高野山金堂、西御堂御影堂宝蔵御社拝殿大門看経所、安楽川経蔵一切経大塔、上御主殿勧学院室、南谷大師堂興山寺 (廃寺)青巌寺奥院灯籠堂 高野山寺領荒川荘三船神社鞆淵八幡神社興山寺 京都方広寺大仏殿中門)、東寺(塔、講堂御影堂灌頂院)、醍醐寺金堂、塔)、清滝権現安祥寺誓願寺清水寺清凉寺三十三間堂平等院 その他石山寺東大寺室生寺善光寺厳島神社 応其多く高野衆や各地から集めた百人もの大工率いて寺社大規模造営整備にあたっていた。豊臣政権行政機構中に組み込まれていたわけではないが、実質上寺造営における豊臣家作事組織として機能していた。太田直之の研究によれば、とくに京都方広寺大仏殿造営において「木食内衆」「御内」などと呼ばれ応其との諸連絡取次応其意を受けての文書発給造営料の管理などを行った奉行50人ほどいて、大きく応其高野山をつなぐ行人奉行と、修造専門的に行う穀屋奉行2系統分かれていたと指摘する前者にはのちに応其後継者となる文殊院勢誉応其対立したため殺されとされる理徳院がいた。一方後者代表する人物として遍照院覚栄挙げられ造営事業実務面を覚栄一手引き受けてたとするそんななか学侶側から太閤検地の際に応其朱印状隠匿したという嫌疑かけられ応其死後に至るまで紛争の元となった。しかし応其高野山内での発言力強く行人側は応其接近していった。

※この「高野山再興と秀吉への協力」の解説は、「木食応其」の解説の一部です。
「高野山再興と秀吉への協力」を含む「木食応其」の記事については、「木食応其」の概要を参照ください。

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