高野山再興と秀吉への協力
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「木食応其」の記事における「高野山再興と秀吉への協力」の解説
天正15年(1587年)応其は秀吉の使僧として千利休らとともに島津氏との和睦交渉で力を尽くした。留意すべきは、同年9月22日に上方で開催された連歌の会に応其、細川幽斎、連歌師の里村紹巴、里村昌叱らに混じって、島津義久や重臣の伊集院忠棟が参加している点である。 その後、秀吉に協力して高野山に金堂や大塔を建立し、高野山の再興にあたった。天正18年(1590年)には高野山内に興山寺 (廃寺)を開基した。その際、秀吉が後陽成天皇に奏請して勅額が掲げられるとともに、「興山上人」の号を賜った。「興山寺」の寺名は、高野山の「中興開山」から来ている。また、同年荒川荘に同名の興山寺も開基している。文禄2年(1593年)には秀吉の母・大政所の菩提所、剃髪寺(青巌寺)を開基した。興山寺 (廃寺)と青巌寺は現在の総本山金剛峯寺の前身となっている。その他にも応其は全国を行脚し寺社の勧進につとめ、造営に携わった寺や塔は97にのぼるとされる。その中の顕著なものを挙げると、 高野山金堂、西御堂、御影堂、宝蔵、御社拝殿、大門、看経所、安楽川経蔵、一切経蔵、大塔、上御主殿、勧学院室、南谷大師堂、興山寺 (廃寺)、青巌寺、奥院灯籠堂 高野山寺領(荒川荘)三船神社、鞆淵八幡神社、興山寺 京都方広寺(大仏殿、中門)、東寺(塔、講堂、御影堂、灌頂院)、醍醐寺(金堂、塔)、清滝権現、安祥寺、誓願寺、清水寺、清凉寺、三十三間堂、平等院 その他石山寺、東大寺、室生寺、善光寺、厳島神社 応其は多くの高野衆や各地から集めた何百人もの大工を率いて寺社の大規模造営・整備にあたっていた。豊臣政権の行政機構の中に組み込まれていたわけではないが、実質上寺社造営における豊臣家の作事組織として機能していた。太田直之の研究によれば、とくに京都の方広寺大仏殿の造営において「木食内衆」「御内」などと呼ばれ、応其との諸連絡や取次、応其の意を受けての文書発給や造営料の管理などを行った奉行は50人ほどいて、大きくは応其と高野山をつなぐ行人系奉行と、修造を専門的に行う穀屋系奉行の2系統に分かれていたと指摘する。前者にはのちに応其の後継者となる文殊院勢誉や応其と対立したため殺されたとされる理徳院がいた。一方、後者を代表する人物として遍照院覚栄が挙げられ、造営事業の実務面を覚栄が一手に引き受けていたとする。 そんななか、学侶側からは太閤検地の際に応其が朱印状を隠匿したという嫌疑をかけられ、応其の死後に至るまで紛争の元となった。しかし応其の高野山内での発言力は強く、行人側は応其に接近していった。
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