高野山の西塔再建に尽力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 08:46 UTC 版)
これより先、寛永7年(1630年)高野山の大塔が落雷により出火。金堂、御影堂、西塔等がみな灰燼と化す事故があり大塔、金堂はほどなく再建されたが、西塔は「塔基焦土に埋り仮堂も又朽損す」という有様であった。そのため、寛政6年(1794年)、高野山 正智院の第37世・英寂が西塔再建の本願主となり、自己資金1000両を基金として提供したが果たせず志を継いだ、正智院 第38世・覚道が西塔再建を幕府に願い出て公許を得ることが出来た。弘元上人は、この再建に取り組み東奔西走し尽力。正智院覚道より以後、満福寺は本山へ結衆の推薦を経ず「上人」号を名乗ることの出来る「永代上人」号を賜った。しかし、覚道の代には再建することが出来ず老齢のため退任。第39世・乗如がこの再建事業を引継ぎ、苦心惨憺20余年、天保5年(1834年)に完成を見た。
※この「高野山の西塔再建に尽力」の解説は、「弘元」の解説の一部です。
「高野山の西塔再建に尽力」を含む「弘元」の記事については、「弘元」の概要を参照ください。
- 高野山の西塔再建に尽力のページへのリンク