高野山からの反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
建武政権下で東寺一長者・東寺大勧進職・醍醐寺座主という真言宗の要職をほぼ独占した文観だが、急速な勢力拡大に、真言宗内部の大派閥の一つである高野山金剛峰寺の衆徒からはきわめて強い反発を受けた。 建武2年(1335年)5月に高野山検校第100代の祐勝に提出された「高野山衆徒奏上」(『大日本史料』第6編21冊所収)は、文観を強く非難する文書である。この奏上は、文観を「勧進聖文観法師」という東寺一長者に対する呼称としては蔑称に近い呼び名で名指しし、東寺長者を解任するように求めている。同奏上は、国家鎮護の中心である東寺の長官に、西大寺末寺の出身に過ぎない「小乗律師」の文観が補任されたのは遺憾であるとしている。文観の人となりについては、算道(算術の学問。平安時代末期には呪術にも進出した)を兼学し、卜筮(占い)を好み、呪術を専らに修法し、修験道に立脚し、貪欲・驕慢な性格であると主張している。 上奏文は、文観による真言宗一極体制を危惧したという体裁にはなっているものの、実際には文観への批判はほぼ全てその低い出自と、それにまつわる偏見に集中している。そのため、内田啓一の見解によれば、後醍醐天皇がある人物をことさら重用したことそのものが問題だったのではなく、その人物が貴種ではなく身分の低い律僧出身だったことが、高野山の僧侶には容認しがたかったのではないか、という。
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