高野山からの追放とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 13:35 UTC 版)
「織田秀信」の記事における「高野山からの追放とその後」の解説
改易された秀信は高野山で修行を積むことになったが、祖父・信長の行った高野山攻めが仇となって当初は入山が許されず、10月28日まで待たされた。出家が許された後も迫害を受けた。この間、慶長8年(1603年)に伯母・三の丸殿が亡くなった際にはその供養を行っている。 慶長10年(1605年)5月8日、高野山から出て、山麓に住む。追放ともされる下山の理由には僧を斬るなど自身の乱行が原因であるとの説があるが、秀信自身は仏教を迫害したことはなく、高野山追放は祖父のとばっちりであるとする説もある。同年5月27日、向副で生涯を閉じた。この事からも、健康を害していたための下山療養とも考えられるが、死因は自害であるとも伝わる。高野山側では山を下りた5月8日を死亡日としている。享年26。 同地の観音寺に位牌が祀られている。大正期、円徳寺住職が墓所に秀信の事跡を綴った石碑を建立している。墓所は高野山にも存在し、同地の墓所には豊臣秀次の胴塚が存在する。
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