高野山入り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 06:42 UTC 版)
天正元年(1573年)に38歳で高野山において出家し、宝性院の勢誉から受戒、名を応其と改めた。小瀬甫庵の信長記では出家は25~6歳の頃であるとしている。また高野山入山のおり、十穀を絶つ木食行を行うことを発願している。応其は「客僧」という立場であり、学侶や行人、高野聖とも異なる存在であった。また密教大辞典では天下人から厚遇を受けた政遍からも戒を受け、仁和寺宮仁助法親王より三部の大法を受け、阿闍梨にのぼったとされている。業績を重ねる一方で連歌の名手でもあり、里村紹巴と親交をもった。
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