高野山包囲とは? わかりやすく解説

高野山包囲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:41 UTC 版)

織田信長」の記事における「高野山包囲」の解説

天正9年1581年)、高野山荒木村重残党を匿ったり、足利義昭通じるなど信長敵対する動き見せる。『信長公記によれば信長使者十数人を差し向けたが、高野山使者全て殺害した高野山側は、足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉働いたため討った、としている)。一方、『高野春秋』では前年8月高野山宗徒荒木村重残党との関係の有無問いかける書状松井友閑通じて送り付け続いて9月21日一揆加わった高野聖らを捕縛し入牢あるいは殺害したこのため天正9年1581年1月根来寺協力して高野聖高野大衆一揆結成し信長反抗した信長一族和泉岸和田城主・織田信張総大将任命して高野山攻め発令1月30日には高野聖1,383名を逮捕し伊勢京都七条河原処刑した10月2日信長堀秀政軍勢援軍として派遣した上で根来寺攻めさせ、350名を捕虜とした。10月5日には高野山七口から筒井順慶の軍も加勢として派遣し総攻撃加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘長期化し、討死多数上った天正10年1582年)に入ると信長甲州征伐主力を向ける事になったため、高野山戦闘ひとまず回避される。武田家滅亡後4月信長は信張に変えて信孝を総大将として任命した。信孝は高野山攻撃加えて131名の高僧多数宗徒殺害した。しかし決着はつかないまま本能寺の変起こり織田軍の高野山包囲は終了し比叡山延暦寺同様の焼き討ちにあう危機免れた

※この「高野山包囲」の解説は、「織田信長」の解説の一部です。
「高野山包囲」を含む「織田信長」の記事については、「織田信長」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「高野山包囲」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高野山包囲」の関連用語

高野山包囲のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高野山包囲のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの織田信長 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS