高山流の歴史
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高山政吉は、片手サーベル式の軍刀は戦闘での具合が悪いため、日本刀式に改めるべきであるとの論を唱え、実戦場で持論を検証し、改良することを決意する。これが高山流抜刀術の始まりである。 高山は1937年(昭和12年)8月9日に第二次上海事変が起きると中国大陸に渡り、当時南京攻略戦に当たっていた第16師団に身を寄せて執筆活動にはげみ、翌1938年(昭和13年)2月に、近代戦用「白兵抜刀術」の草案を完成させた。帰国後の1940年(昭和15年)、雑誌上に「武道改革所見」を発表したのを皮切りに、舞鶴海兵団や海軍兵学校等で講演、実技を演武公開すると、高山の白兵抜刀術は海軍機関学校に採用され、更に、1940年(昭和15年)5月5日、大日本武徳会京都全国大会において「高山流白兵抜刀術」の流名で、舞鶴海軍によって公開されるに至った。 同時期、陸軍内でも高山の刀法理論を採用するかどうかが持ち上がり、同年5月19日、松井石根大将、中島今朝吾中将、石原中将の推挙により、陸軍戸山学校校長田中久一中将のもとで検討される。9月20日には、中山博道範士の上申に基づき、陸軍大臣官邸において、大日本武徳会会長林銑十郎大将、松井石根大将、田中久一校長らによって高山の刀法が審議され、採用されることが決定する。 同年10月18日には、陸軍大臣東条英機より採用が承認され、高山は、陸軍からは終身教官をもって遇することを口達された。11月には、陸軍戸山学校より「軍刀の操法及試斬」(『偕行社記事』付録)が発行され、将校らに伝達される。 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)1月19日には、高山刀法を伝達するために全国を四区分して指導することが決められ、東北区には東京高等師範学校の道場が、中部区には京都武徳殿が、西部・四国区には呉海兵団が、九州区には佐世保海兵団がそれぞれ割り当てられたが、1945年(昭和20年)8月15日の終戦によって高山流もその発展を止められることとなる。 戦後は創始者の高山が九州の久住山中に隠棲したこともあり、高山流抜刀術は、戸山流がしばらくして世間に広まっていったのとは対照的に、その流勢は衰えていった。
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