高山流の歴史とは? わかりやすく解説

高山流の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 05:58 UTC 版)

海軍高山流抜刀術」の記事における「高山流の歴史」の解説

高山政吉は、片手サーベル式の軍刀戦闘での具合が悪いため、日本刀式に改めるべきであるとの論を唱え実戦場で持論検証し改良することを決意する。これが高山流抜刀術始まりである。 高山1937年昭和12年8月9日第二次上海事変起きると中国大陸渡り当時南京攻略戦当たっていた第16師団身を寄せて執筆活動にはげみ、翌1938年昭和13年2月に、近代戦用「白兵抜刀術」の草案完成させた。帰国後の1940年昭和15年)、雑誌上に「武道改革所見」を発表したのを皮切りに舞鶴海兵団海軍兵学校等で講演実技演武公開すると、高山白兵抜刀術海軍機関学校採用され、更に、1940年昭和15年5月5日大日本武徳会京都全国大会において「高山流白兵抜刀術」の流名で、舞鶴海軍によって公開される至った同時期、陸軍内でも高山刀法理論採用するかどうか持ち上がり同年5月19日松井石根大将中島今朝吾中将石原中将推挙により、陸軍戸山学校校長田中久一中将のもとで検討される9月20日には、中山博道範士の上に基づき陸軍大臣官邸において、大日本武徳会会長林銑十郎大将松井石根大将田中久一校長らによって高山刀法審議され採用されることが決定する同年10月18日には、陸軍大臣東条英機より採用承認され高山は、陸軍からは終身教官をもって遇することを口達された。11月には、陸軍戸山学校より「軍刀の操法及試斬」(『偕行社記事付録)が発行され将校らに伝達される太平洋戦争末期1944年昭和19年1月19日には、高山刀法伝達するために全国を四区分して指導することが決められ東北区には東京高等師範学校道場が、中部区には京都武徳殿が、西部四国区には呉海兵団が、九州区には佐世保海兵団それぞれ割り当てられたが、1945年昭和20年8月15日終戦によって高山流その発展止められることとなる。 戦後創始者高山九州久住山中に隠棲したこともあり、高山流抜刀術は、戸山流しばらくして世間広まっていったのとは対照的に、その流勢は衰えていった。

※この「高山流の歴史」の解説は、「海軍高山流抜刀術」の解説の一部です。
「高山流の歴史」を含む「海軍高山流抜刀術」の記事については、「海軍高山流抜刀術」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「高山流の歴史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高山流の歴史」の関連用語

高山流の歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高山流の歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの海軍高山流抜刀術 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS