高山流と戸山流の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 05:58 UTC 版)
「海軍高山流抜刀術」の記事における「高山流と戸山流の関係」の解説
戦後は禁止されていた武道や日本刀製作は、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約発効により、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が解かれると解禁され、それぞれ新しくスポーツ武道として、美術刀剣として蘇った。戸山流居合道も、旧陸軍戸山学校で剣術科長を務めていた森永清らによって武道界に広められ、現在に至る。 現在の戸山流は、中村泰三郎の全日本戸山流居合道連盟、森永清の大日本戸山流居合道会、山口勇喜の日本戸山流居合道連盟、徳富太三郎の関東戸山流居合道会の4団体によって継承されている。 旧陸軍戸山学校から発祥した戸山流は居合の流派として広く全国的に分布し、今日の抜刀術の大部分は、この流れを汲むものである。一方、軍港都市舞鶴を発祥の地とする海軍の高山流は、直門の小山勇(高山流2世)が自宅に「高山流刀法居合研究所」の看板を掲げてわずかに命脈を保ち、他には舞鶴市内で数人がやっている程度であったが、今ではその関係者もほとんど死亡している。 生前、小山は師・高山の戦中の働きを顕彰するべく賞勲局と交渉したが、「戦前、戦中の功績は認められない」とされ、叙勲はならなかった。
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