高山工区本坑工事と2回目の出水事故
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「中山トンネル (上越新幹線)」の記事における「高山工区本坑工事と2回目の出水事故」の解説
高山工区では、1977年(昭和52年)6月から本坑掘削に着手した。高山立坑の底付近は堅固な安山岩や閃緑玢岩であったこともあり、本坑工事は順調に進められた。 立坑より新潟方では、大宮起点109 km600 m付近から古子持火砕岩層に入った。湧水は少なかったが水圧が高いままであり、水抜きが困難で、しばしば土砂流出を繰り返した。迂回坑を建設したが、これも行き詰った。結局注入によって突破することになった。ソレタンシュ式注入工法を採用したが、工費が膨大であり月進6 - 10 m程度でしか前進できなかったため、異なる工法が検討された。その結果、ボーリング穴に真空ポンプを接続する水平バキューム排水工法(真空水抜工法)を採用することで月進30 m程度を達成することができた。1981年(昭和56年)10月に高山工区の新潟方が完成した。 一方高山工区の大宮方は良好な地質で順調に掘削を進めることができた。底設導坑先進上半工法により掘削を進めてきたが、108 km000 mから300 m付近には八木沢層が分布していることがわかり、108 km380 m付近からサイロット工法に切り替えた。ここでも迂回坑を掘ることが検討された。下り列車に対して本線右側(東側)の方が不整合面の尾根になっていると考えられたことから、東側に向かって迂回坑を掘ってみたが、ボーリングにより前方に八木沢層があることが確認され前進できなくなった。当初の見込みとは逆に、下り列車に対して本線左側(西側)に閃緑岩があることが判明し、こちら側に迂回坑が建設された。最大で180 mほど本坑から離れた場所を迂回して、1979年(昭和54年)10月に107 km900 m付近に到達することに成功した。これにより八木沢層の背後に回ることができたため、八木沢層を両側から攻略するとともに、この間に出水事故を起こして停滞していた四方木工区へ向けて掘削を進めることになった。 迂回坑により回り込んだ先で新潟方へ逆戻りするように本坑工事を進めて行ったが、108 km100 m付近で探りボーリングにより八木沢層が近づいていることが判明した。このため注入を実施して前進することになった。1980年(昭和55年)3月6日、108 km125 mまで導坑を前進させ、次のボーリングとコンクリート覆工を行う準備を進めていた。3月7日23時30分頃、108 km110 m付近で変状が見られ始め、補強作業を行ったものの8日9時30分頃40トン/分の大出水となった。この当時、四方木工区と高山工区の間の坑道がつながったばかりであったため、この水は両方の工区に流れ込んでいった。出水から1日半の間は両工区の揚水能力の範囲内であったため完全水没は免れていたが、3月9日17時30分に2次崩壊が発生し、110トン/分の大出水となって四方木工区と高山工区のすべてが水没した。四方木工区がようやく復旧したばかりの時期の出水事故であったため、関係者に大きな衝撃をあたえた。前年12月24日に、1982年(昭和57年)春に東北新幹線と上越新幹線を同時開業させる方針が発表された直後であったが、この時期に再度の出水事故の打撃は大きく、ついに上越新幹線は東北新幹線との同時開業を断念することになった。 今回の出水事故は、閃緑岩が半島状に伸びているところにトンネルの本坑を掘る形となったため、両側面から水圧がかかって岩盤が劣化したことが原因と考えられた。
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