領有権問題の背景
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「エストニアとロシアの領有権問題」の記事における「領有権問題の背景」の解説
1918年に旧帝政ロシア領から独立宣言をなしたバルト三国は、ロシアSFSRから侵入した赤軍やドイツ帝国軍による干渉も、独立戦争によって各々はね除けた。そして1920年2月2日、エストニアはロシアSFSRとの間にタルトゥ条約を締結し、和平と国家承認を取り付けるとともに、両国の国境線(ロシア語版)についても詳細に策定した。平和条約において、ロシアは帝政時代に有していた、三国に対する「人民および領域に対するすべての主権的権利を自発的かつ永遠に放棄する」と述べていた。 その後、第二次世界大戦開戦が迫る1939年8月23日、ロシアSFSRの後身であるソビエト連邦は、ナチス・ドイツとの間に独ソ不可侵条約を締結した。しかし、その条約には秘密議定書(ロシア語版)が附属しており、その内容は、バルト三国などを両大国が当事国たちの与り知らぬところで分割するというものであった。 大戦が勃発するとバルト三国は中立宣言を発したが、ソ連は秋には軍事的圧力を行使して、三国との間に相互援助条約を締結した。そして1940年夏、ソ連はこの条約を盾にして三国に軍を進駐させ、その圧力によって国内に左派系新政権を樹立させた。結果、非共産党系候補が事実上排除された選挙により成立した三国の新議会は、7月に自国のソ連への加盟を要求した。翌8月、三国は「自発的に」ソ連へ編入され、その20年余りの独立時代は幕を閉じた(バルト諸国占領)。 そしてこのエストニアのソビエト連邦への併合(ロシア語版)に際して、上記ヤーニリン地域とペツェリ県の2か所がソ連構成国であるロシアSFSRへ割譲されたことが、領有権問題の端緒である(両地は、西側からのドイツ軍に対する防衛戦略価値の高い地域であった)。 その後、ソビエト連邦の崩壊間際にバルト三国が独立回復を宣言すると、1991年9月にはソビエト連邦国家評議会も、三国の独立承認を余儀なくされた。しかし、独立回復後の三国の認識によれば、ソ連への自国の併合と領土の変更は国際法に違反する無効なものであり、戦間期の国家とソ連崩壊後の国家は継続(英語版)している。そのため、ソ連の継承国となったロシア連邦との領有権問題について有効なものは、1920年の平和条約に基づいて策定された国境線のみであると解される。一方ロシア側の立場では、三国のソ連への併合も「自発的な加盟」に過ぎず、領土の変更もソ連の内政問題に過ぎない、とする。
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