領有権主張と膠着
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 23:02 UTC 版)
「エストニアとロシアの領有権問題」の記事における「領有権主張と膠着」の解説
独立回復当初のエストニアは、民族主義的(英語版)なマルト・ラール(英語版)政権 (et) の下、ロシアに対して係争地の返還を強硬に要求していた。1992年6月28日に制定されたエストニア共和国憲法(英語版)の第122条は、「エストニアの陸上の国境は1920年2月2日のタルトゥ平和条約およびその他の国境条約によって設定される」と宣明し、1994年6月30日可決(7月31日発効)の「国境法」第1章第2条第2項も、ほぼ同文の規定を置いた。レンナルト・メリ大統領もタルトゥ条約について「エストニアの出生証明書」と述べるなど、タルトゥ条約はまさにエストニアにとって対露国境交渉の根幹をなすものであった。 しかし、独立回復当初のバルト三国が喫緊の課題としていたのは、NATO(およびEU)への加盟であった。NATOはその加盟国に対し集団的自衛権発動の義務を負うため、NATOが仮想敵国と見做すロシアと領土問題を抱え、またロシア連邦軍が駐留を続けるバルト三国がNATOへ加盟できる可能性は著しく低かった。また、ロシア側もバルト三国のNATO加盟を阻止するため、基地撤退問題や領土問題で非妥協的立場をとった。 エストニア=ロシア間(英語版)においても、双方が譲歩の余地を見せることなく国境交渉は行き詰まり、1994年4月にエストニア側は交渉の10年間凍結を提案した。しかしロシア側はこの提案を無視し、ボリス・エリツィン大統領は6月22日の大統領令(英語版)により、一方的に既存の境界線を国境線と決定した。11月23日にはペチョールィ付近の「国境」を訪問し、「ロシアの土地は何があっても一辺たりとも誰にも渡さない」と強硬に述べた。
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