領内騒動、改易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 06:03 UTC 版)
これ以降、信直は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662年)より領内総検地を断行し、表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打出し幕府に報告した。のちに沼田藩改易後、幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった。当時の幕府は各藩に対し、申告された石高に相当して参勤交代の行列規模、御手伝普請を命じる制度になっており、実高6万石の土地の収益から14万石相当のこれを満たすために高率の年貢をかけられた沼田領民の負担は深刻であった。また、江戸の藩邸も松代藩邸に引けをとらぬ豪奢な造りに改装したため、領民は重税を強いられ多数の餓死者を出すなど、ますます窮乏していった。 延宝8年(1680年)、信直は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から請負った。しかし、折からの台風により利根川、片品川が氾濫して用材は流出し、翌天和元年(1681年)10月の納入期日に間に合わなかった。さらに同年、長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出した。11月、沼田藩は幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された。 信直は山形藩奥平家にお預けとなった。長男の信音は赤穂藩浅野家に、次男の源三郎(武藤信秋)(母は正室松姫)は郡上藩遠藤常春に、三男の外記(栗本直堅)・四男の辰之助は上田藩仙石家にそれぞれお預けとなった。また一説では、辰之助は長姫(信利の姉。公卿の千種有能室)の養子となり、初め真田修理亮信明、後に千種有純と名乗ったとも言われている。尚姫もまた長姫の養女となり、公卿の久我通誠に嫁いでいる。翌天和2年正月には、幕府の命令によって沼田城が破却され、堀も埋められた。その後、信直は奥平家の宇都宮への転封に伴って山形から宇都宮に移り、同地で没した。享年54。 長男の信音は後に許され、旗本として1000俵(後に采地1000石)を与えられたが、無継絶家で改易となる。一門の真田信興がその名跡を継ぐが、信興の子の政賢の不行跡のため、改易追放となる。この時、父信興の兄弟の信清も連座して改易となった。
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