領内全域の治水事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:12 UTC 版)
関ヶ原の戦いの後、知行高を4000石に加増される。 慶長8年(1603年)、江戸幕府が開かれると、江戸の町の修復や水路の整備を行う。またこの頃、山城国二条城、駿河国駿府城、尾張国名古屋城、肥後国熊本城等の築城にも参加、この経験を肥前国佐賀城の修復に生かした。 慶長19年(1614年)から、大坂の陣に出陣した。 慶長15年(1610年)から没するまで、水害の防止、新田開発、筑後川の堤防工事、灌漑事業、上水道の建設など、本格的な内政事業を行っている。茂安の手がけた事績は、細かい物も入れると100ヶ所を超えるともいわれ、300年以上たった現在でも稼働しているものもある。民衆や百姓の要望に耳を貸す姿勢は、肥前国佐賀藩の武士道の教書でもある『葉隠』に紹介されており、影響を与えた。 元和4年(1618年)、主君勝茂の八男翁介(直弘)を養子にする。寛永10年(1633年)、知行1000石を直弘に割いて一家を立てさせる。 寛永11年(1634年)、数え年75歳で死去。家臣7人が殉死したという。晩年は築山の南麓に住んでおり、築山頂上には成安夫妻等の石碑や追腹殉死者の墓石があり、かつては成富茂安の遺骨も埋葬されていた。現在墓所は佐賀市田代の本行寺に遺骨と遺髪は移されている。 明治24年(1891年)、石井碑に成富兵庫の水功碑「成富君水功之碑」を副島種臣の書により建之。明治44年(1911年)、従四位を追贈された。 昭和に入り成富の没した築山(現・築山児童公園)に「成富兵庫頭茂安碑」や、昭和42年(1967年)には生誕の鍋島町増田地区の東北隅嘉瀬川堤防の中腹に「成富兵庫茂安公誕生の地」の碑が建立された。
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