革命家イエス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 00:45 UTC 版)
革命家としてのイエスは様々な解釈が存在する。アメリカ合衆国の歴史家で雑誌編集者でもあったジョエル・カーマイケル(英語版)(Joel Carmichael)は、1963年に発表した"The Death of Jesus " (邦題『キリストはなぜ殺されたのか』。西義之訳、読売新聞社刊。1972年) において、イエスはみずから「ユダヤ人の王」としてローマの支配体制に抵抗し、最終的には武力革命の興起を試みた結果、当時のアンチローマ・ラディカリストである「ゼーロータイ」(熱心党)の1人として、ローマ帝国の派遣したユダヤ総督によって磔刑に処せられた、という解釈を施している。 このように、イエスを政治的文脈でとらえようとする著作は、歴史家のイエス研究のなかから現れて来る。 イギリスの宗教史研究者S. G. F.ブランドン(英語版)(S. G. F. Brandon)は1967年に"Jesus and the Zealots , A study of the political Factor in Premitive Christianity "(邦題『イエスとゼーロータイ — 原始キリスト教における政治的要素に関する研究』)を著し、同じころ、日本の西洋史学者土井正興は『イエス・キリスト — その歴史的追究』(三一書房、1966年)を著している。土井のイエス像は、当時、不浄なものとして差別され、虐げられていた「アム・ハ・アレツ」(「地の民」)と共に立ち、かれらを宗教的に救済しようとするいっぽうで、ゼーロータイ的な政治革命への志向性をも有し、その両者を統合しようとするが、有効な革命理論の定立と行動の組織化に破綻を来したため、イエスはみずからの運動に挫折した、というものである。 歴史家によるイエス研究については、上述した聖書学者たちによる史料批判の成果が一顧だにされない傾向について批判があり、とくに解釈における革命家的側面の強調については、ひろくみて「1960年代現象」のひとつではなかったかとの見解もある。これら「革命家イエス」に対する、聖書学者による、より強固な反論としては、1970年のオスカル・クルマン(Oscar Cullmann)の"Jesus und die Revolutionären seiner Zeit " (邦題『イエスと当時の革命家たち』。川村輝典訳、日本基督教団出版局刊。1972年)がある。クルマンによれば、イエスは「ゼーロータイ」と称された当時の革命家たちよりもむしろ革命的であった、何となれば、イエスは「神の国」建設とその手段としての政治的行動計画さえ拒否して人びとの心の革命(「悔い改め」)をこそ問題にしたからなのであった。一方、荒井献は、イエスを政治的革命家に仕立て上げることも、政治とは関わりのない宗教的次元に押し込むことも不適当であるとし、政治と宗教が不可分であった背景において、イエスが社会的に差別の対象とされていた民衆と共に立ったことが、既にそれだけで宗教的=政治的であったと指摘している。またエルサレム神殿は当時においてユダヤの政治・経済的拠点であり、神殿から両替商を追い出した、あるいは、神殿を打ち壊すと言ったとすれば、それらは決定的な政治批判になるとしている。
※この「革命家イエス」の解説は、「ナザレのイエス」の解説の一部です。
「革命家イエス」を含む「ナザレのイエス」の記事については、「ナザレのイエス」の概要を参照ください。
- 革命家イエスのページへのリンク