隆景と秀吉の死、毛利家中の問題処理とは? わかりやすく解説

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隆景と秀吉の死、毛利家中の問題処理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「隆景と秀吉の死、毛利家中の問題処理」の解説

慶長2年6月残され両川となっていた小早川隆景死去した小早川家臣は養子小早川秀秋に仕えることをよしとせず、毛利本家帰参した。しかし、これらの者の中には帰参したはいいが、毛利家中では外様視されてしまうことを嫌い、出奔する者も多く出た。隆景の重臣であった鵜飼元辰出奔企てたため、輝元は元辰を殺害したまた、隆景の死後三原など毛利家返還される所領の処理も問題となった加えて、輝元は実子の秀就が生まれたため、秀就を後継者とする代償として、養子の秀元に領地分け与えなければならなかった。 慶長3年1598年8月1日秀吉はこの問題の処理のため、秀元の給地出雲・石見石見銀山を除く)の二国とし、隆景の遺領には吉川広家を移す意向示した。だが、この裁定直後秀吉病状悪化したため、実行には移されなかった。 同月18日秀吉大坂城死去した。輝元はその際臨終間近秀吉から遺児豊臣秀頼補佐託された。だが、秀吉死後諸大名の間で政治的抗争激化し秀吉没後決められていた集団指導体制否定され多数派工作展開されていった8月28日、輝元は五奉行のうち石田三成ら四奉行対し、「五大老の内、秀頼への謀反ではなくとも、五奉行意見同意しないものがあれば、自身五奉行味方して秀頼に奉公する」、とした旨の起請文出した。輝元は、家康五奉行敵対する考えていた。そのため、輝元は家康五奉行不和になった場合に際して起請文通り五奉行連携するため、上方方面に兵を集結させていた。 9月3日、輝元・家康五大老三成五奉行起請文交わし、「何事に関して一切誓紙を交わさない」と定めて多数派工作禁じ諸大名対立ひとまず沈静化した。とはいえ家康五奉行対立依然として続き五奉行強大な軍事力を持つ家康対抗するため、家康に次ぐ実力を持つ輝元を味方引き入れようとした。そして、それは秀元の処遇・隆景の遺領問題を輝元有利に決着させるため、秀吉裁定見直方向繋がったその後豊臣政権取次であった三成は、秀元に吉川広家所領である伯耆出雲隠岐与えて、広家を宙に浮いていた小早川隆景遺領に移す案を作成した。輝元は吉川氏勢力削減する意図をもっていたため、瀬戸内海要所である三原を広家に与えることに難色示して代替地備中にする意向示し、秀元も長門与えられることを希望したが、所領移される広家は元よりこの提案内容反発し三者三様反対をした。にもかかわらず慶長4年1599年1月三成は広家の代替地決定先送りする形で、この案を押し切った

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