隆景と秀吉の死、毛利家中の問題処理
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「毛利輝元」の記事における「隆景と秀吉の死、毛利家中の問題処理」の解説
慶長2年6月、残された両川となっていた小早川隆景が死去した。小早川家臣は養子の小早川秀秋に仕えることをよしとせず、毛利本家に帰参した。しかし、これらの者の中には帰参したはいいが、毛利家中では外様視されてしまうことを嫌い、出奔する者も多く出た。隆景の重臣であった鵜飼元辰も出奔を企てたため、輝元は元辰を殺害した。 また、隆景の死後、三原など毛利家に返還される所領の処理も問題となった。加えて、輝元は実子の秀就が生まれたため、秀就を後継者とする代償として、養子の秀元に領地を分け与えなければならなかった。 慶長3年(1598年)8月1日、秀吉はこの問題の処理のため、秀元の給地を出雲・石見(石見銀山を除く)の二国とし、隆景の遺領には吉川広家を移す意向を示した。だが、この裁定の直後、秀吉の病状が悪化したため、実行には移されなかった。 同月18日、秀吉が大坂城で死去した。輝元はその際、臨終間近の秀吉から遺児の豊臣秀頼の補佐を託された。だが、秀吉の死後、諸大名の間で政治的抗争が激化し、秀吉没後に決められていた集団指導体制は否定され、多数派工作が展開されていった。 8月28日、輝元は五奉行のうち石田三成ら四奉行に対し、「五大老の内、秀頼への謀反ではなくとも、五奉行の意見の同意しないものがあれば、自身は五奉行に味方して秀頼に奉公する」、とした旨の起請文を出した。輝元は、家康と五奉行が敵対すると考えていた。そのため、輝元は家康と五奉行と不和になった場合に際して、起請文通りに五奉行と連携するため、上方方面に兵を集結させていた。 9月3日、輝元・家康ら五大老と三成ら五奉行は起請文を交わし、「何事に関しても一切の誓紙を交わさない」と定めて多数派工作を禁じ、諸大名の対立はひとまず沈静化した。とはいえ、家康と五奉行の対立は依然として続き、五奉行は強大な軍事力を持つ家康に対抗するため、家康に次ぐ実力を持つ輝元を味方に引き入れようとした。そして、それは秀元の処遇・隆景の遺領問題を輝元有利に決着させるため、秀吉の裁定を見直す方向に繋がった。 その後、豊臣政権の取次であった三成は、秀元に吉川広家の所領である伯耆・出雲・隠岐を与えて、広家を宙に浮いていた小早川隆景の遺領に移す案を作成した。輝元は吉川氏の勢力を削減する意図をもっていたため、瀬戸内海の要所である三原を広家に与えることに難色を示して代替地を備中にする意向を示し、秀元も長門を与えられることを希望したが、所領を移される広家は元よりこの提案内容に反発し、三者三様の反対をした。にもかかわらず、慶長4年(1599年)1月に三成は広家の代替地の決定を先送りする形で、この案を押し切った。
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