隆盛と官寺化とは? わかりやすく解説

隆盛と官寺化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 11:29 UTC 版)

飛鳥寺」の記事における「隆盛と官寺化」の解説

貞観4年862年)の太政官符で「聖教最初之地也」と評されるように、飛鳥寺蘇我氏氏寺留まらず仏教隆昌中心地になっていった。推古天皇17年609年)には漂流した百済僧道欣ら11人が、同33年には高句麗僧の慧灌が、ついで呉人の僧福亮智蔵相次いで入寺している。飛鳥白鳳期にあっては彼ら渡来僧が学問仏教先駆をなし、特に恵慈慧灌福亮智蔵三論宗学んだとされ、飛鳥寺はその教学中心にあったといえる一方で法相宗の祖といわれる道昭飛鳥寺得度したのち唐に渡り玄奘師事その後帰国した道昭飛鳥寺禅院を建て、唐から持ち帰った経典数々弟子学僧と共に居住した。以上のように同寺は当時日本における仏教教学研究機関としての機能有した唯一の寺院であり、やがて朝廷からの庇護を受けるようになった考えられる皇極天皇4年645年)に乙巳の変蘇我本家滅亡するが、飛鳥寺中大兄皇子中臣鎌足出会いの場や蘇我氏討伐本陣になるなど、朝廷との強い関係性うかがえる飛鳥寺この頃までには蘇我氏氏寺の域を超えて国家の寺としての実力備えていたと考えられる天武天皇時代には官が作った寺院官寺)と同等に扱うようにとする勅が出され文武天皇時代には大官大寺川原寺薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて官寺並み朝廷保護を受けるようになった。これに関連して飛鳥寺近く飛鳥池工房遺跡からは大量富本銭発見され、その位置づけ巡って飛鳥寺との関係も含めて様々な議論が行われている。

※この「隆盛と官寺化」の解説は、「飛鳥寺」の解説の一部です。
「隆盛と官寺化」を含む「飛鳥寺」の記事については、「飛鳥寺」の概要を参照ください。

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