隆盛と打撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 01:29 UTC 版)
鰍沢への路線を合併した頃、山梨馬車鉄道は隆盛に達した。ちょうどこの頃中央本線がようやく県内に達し、そこから先で勝沼方面の路線が連絡輸送手段として盛んに利用されるようになったのである。鰍沢方面でもいまだ衰えぬ富士川の舟運と連携して甲府周辺の貨物や身延山への観光客の輸送に活躍し、まさに大入満員の状態であった。 しかし1903年に中央本線が甲府まで開通すると、それまでは勝沼方面の路線で恩恵をもたらしてくれていた同線が並行路線となり、途端に強大な商売敵としてのしかかって来た。勝負をしようにも片や官鉄、片や馬車鉄道では勝負にすらならず、山梨馬車鉄道は勝沼方面の旅客をすべて奪われてしまった。 さらに鰍沢方面の路線でも、上述の「富士川の舟運に影響はないだろうしうちも大丈夫だろう」という当初の会社の楽観的な予測は見事に外れ、開通した途端に人も貨物も一斉に中央本線へ流れて舟運の輸送量は5分の1近く、売上高は半分以下とすさまじい減少に転じてしまい、舟運の存在を前提としている路線の運営に大きな打撃となった。 やむなく会社は勝沼方面では1904年2月に勝沼 - 石和間を廃止して被害を最低限に食い止めるとともに、鰍沢方面では貨物輸送よりも旅客輸送の方に重点を置きながら運営することにし、さらに同年12月27日には甲府駅の駅前まで支線を延ばして路線をT字形に編成し直すなどして何とか状況に適応しようとした。 だが悪いことは続くもので、折から開戦した日露戦争のために行われた軍馬徴発の対象となり、馬車鉄道の動力である馬を全部軍馬として持って行かれてしまうという災難に遭う。中央本線という強大な存在に大打撃を負わされた会社にとってはまさに傷口に塩を塗りつけられたも同然で、ここまで来るとその傷も簡単に癒えるものではなくなりぼろぼろの状態であった。
※この「隆盛と打撃」の解説は、「山梨馬車鉄道」の解説の一部です。
「隆盛と打撃」を含む「山梨馬車鉄道」の記事については、「山梨馬車鉄道」の概要を参照ください。
- 隆盛と打撃のページへのリンク