陸海軍の相克
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陸海軍対立の構図は、明治維新当時から、陸の長州藩、海の薩摩藩の二大藩閥を遠因とするが、時には協力し、時には離れながらも、明治・大正・昭和の80年を国防・皇軍という大儀で共に歩んできた。 端的に言えば、郷土部隊の土着性と、航路啓開の海洋性という陸海軍人の性格形成がそのまま両者の思考像を作り上げていたので、終戦まで情報の共有、武器の開発、部隊運用等の協同作戦がとれず、第二次大戦における敗戦の大きな一因ともなっている。 武道においても、陸軍戸山学校、海軍砲術学校と併立して独自に研究がすすめられていたが、海軍は艦艇が主要配置であるので、軍刀及び刀法に関しては、陸軍に比較すれば熱意も低く一歩遅れていた。 これに対し陸戦勝敗の帰結とも言える、歩兵突撃は近接戦闘となるので、軍刀の使用法は前線将兵と参謀本部の大きな関心事であった。各種戦技の総本山であった陸軍戸山学校では、1925年(大正14年)10月から日本の古流居合を取り入れた立業刀法を軍刀操法に応用するべく研究していた。 このような経緯から発表されたのが「軍刀の操法及試斬」で、偕行社から1940年(昭和15年)11月、全国部隊の帯刀本分者に伝達された。 この軍刀操法の指導書に高山政吉が研究していた野戦刀法が採用されたことは以下の状況からも疑いのないものと思われる。 さかのぼる1940年(昭和15年)5月、高山は中島今朝吾中将の口利きもあり、支那事変に従軍して書き上げた「白兵抜刀術」の原稿を陸軍戸山学校の田中校長に提出した。 学校長は「君の発表に先立って本校の研究に採用させて貰うのは気の毒ではあるが、これも国家のためだ」との言葉であったという。高山は永年、命を的に研究してきた刀法が軍に認められ、お国のために役立つならばと思い、感激したと述べている。時局柄、陸軍戸山学校でも鋭意研究中であったので、実戦の経験をもつ高山刀法を加えて完成したのが本書であった。しかし、ここにも学校側の面子と軍人と軍属の力関係が働き、平成の今日に至るまで、高山流刀法が戸山流に寄与した事は語られることはなかった。
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