開教初期とは? わかりやすく解説

開教初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 07:20 UTC 版)

米国仏教団」の記事における「開教初期」の解説

米国仏教団(BCA)の歴史は、19世紀末より増加しだした日系移民対す教化活動端緒とする。苦しい生活を強いられていた移民たちからは、異国自己の信仰拠り所求める声が強く本願寺には移民代表などから僧侶派遣要請が度々なされていた。ハワイ諸島では、1880年代に既に本願寺派開教拠点確立されていたが、アメリカ本土には1898年になってサンフランシスコ本願寺派開教使(師)が着任1899年にはアメリカ初の仏教寺院市内日系移民居住地建立され布教活動本格化した。BCAではこの時を開教元年としている。 その後日系移民増加ともなって渡米する僧侶人員増やし開設される寺院説教所もカリフォルニア主だった都市に及び、シアトルオレゴンから中部アメリカ東海岸大都市へと教線は拡大見せていった。 しかし、開教使として渡米する僧侶多く一時的な滞在であることが多く、そのため英語能力充分とは言えず、数年任期終えると帰国してしまうことから、布教活動対象者もっぱら日系移民とその家族とどまっていた。布教活動内容月々法座年中行事以外には、信徒メンバー)の葬儀法事などを行うくらいであったため、寺院の外(非日系アメリカ人や他の外国移民)にまで布教展開されるまでには、まだ時間が必要であった一方で寺院存在日系移民社会形成一定の役割担った20世紀入ってからもアメリカ白人社会からの日系移民対す人種差別根強く各地プランテーション苦しい生活を送っていた移民たちにとって、寺院開催される定期的な法座大きな精神的支えともなっていた。BCAでは、仏教青年会YBA - 後にBCA Youth)、仏教婦人会BWA)といった組織作られ当時アメリカで珍しかったボーイスカウトいち早く結成された。また、寺院内では移民子女対す初等教育行われており、日本では近代化過程失われていった地域社会としての寺院の姿が維持されていた。 他方アメリカ社会溶け込もうとする努力様々に試みられた。キリスト教の教会倣った日曜礼拝(サンデー・サービス)を行い賛美歌倣って西洋音楽による仏教讃歌盛んに歌われた。寺院建築では外観キリスト教会模したり、内部も本堂に畳を置かず椅子席を導入したり(そもそも畳が入手しづらかった)、布教説教)に演台用いるなど、当時日本では見られない独自の寺院様式生まれた。(「和洋折衷」の寺院様式日本にも逆輸入され今日浄土真宗寺院数多く見ることができる。) こうした地道な努力により、第二次世界大戦前頃にはアメリカ社会でも仏教対す一定の関心理解得られ寺院にも非日系アメリカ人メンバーや、少数ではあったが白人僧侶輩出するまでになった

※この「開教初期」の解説は、「米国仏教団」の解説の一部です。
「開教初期」を含む「米国仏教団」の記事については、「米国仏教団」の概要を参照ください。

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