長岡京・平安京の大極殿
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長岡京段階から、朝堂院と内裏の分離がはじまっている。これは、天皇が大極殿に出御しておこなわれていた朝政が、内裏で行われるようになったためである。そのいっぽうで大極殿は朝堂区域との一体化を強め、大極殿・朝堂・朝集殿をまとめて朝堂院とする呼称は、桓武天皇の792年(延暦11年)に生まれている。 794年(延暦13年)に遷都された平安京の大極殿はそれ以前のものが築地回廊で囲まれ、閤門を持っていたのと異なり、南の朝堂と直接つながる構造となった。すなわち、朝堂院は長岡京の時代にくらべ、いっそう一体化を深めた。ただし大極殿は龍尾壇上に建っており、その境界には朱欄(朱色の手すり)が設けられ、朝堂と大極殿とは「龍尾道」と呼ばれる階段で往来した。龍尾壇は今日の平安神宮でも見ることが出来る。大極殿の後背には「小安殿」(こあどの)と呼ばれる殿舎が軒廊(こんろう)でつながり、天皇出御の際に休憩所として利用された。また、龍尾壇を昇った左右には「白虎楼」「蒼龍楼」という小楼閣が対置されていた。 9世紀中ごろになると、天皇が宮城(大内裏)から出かけることは、賀茂川、臣下の邸宅、上皇の居所などごく一部に限られるようになり、はなはだしくは「大極院行幸」の表現さえ生まれたという 平安末期、後白河法皇の命で作られた『年中行事絵巻』には東西11間、南北4間で、朱塗りの柱と瓦葺き入母屋造の屋根に金色の鴟尾を戴く大極殿が鮮やかに描かれており、平安神宮大極殿や平城宮跡の大極殿復元事業でも参考とされた。なお、『年中行事絵巻』や、1895年(明治28年)京都市参事会によって編纂された『平安通志』には、単層の大極殿が描かれているが、大極殿殿舎は火災により2度も建て替えられており、970年(天禄元年)成立の『口遊(くちずさみ)』に「雲太、和二、京三」と見えるように、当初は出雲大社や奈良の東大寺大仏殿に匹敵する大建築であり、『年中行事絵巻』所載のものは1072年(延久4年)に建て替えられた姿で、本来は重層(2階建て)であったとも推測される。 平安時代中後期から焼亡と再建を繰り返し、朝廷の儀式の中心が土御門東洞院殿(現在の京都御所)へ移行していくのに従い衰微していった。1177年(安元3年)に起きた安元の大火による焼失ののちは再建されることなく廃絶した。京都市中京区千本丸太町の旧跡には、1895年(明治28年)に平安奠都1100年を記念して建てられた石碑を見ることが出来る。ただし、その跡は石碑の付近ではなく、千本丸太町の交差点付近であったことが明らかとされている。 なお、平安神宮は平安宮朝堂院を模して建立されたものであり、外拝殿として大極殿が8分の5の規模で模して建設された。
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