長女・媛姫の死についてとは? わかりやすく解説

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長女・媛姫の死について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 19:44 UTC 版)

聖光院」の記事における「長女・媛姫の死について」の解説

万治元年1658年7月28日に、出羽米沢藩主上綱勝に嫁いでいた長女媛姫が急死した。この死について、正之の側室お志保の方(牛田氏)の産んだ摩須姫(会津藩では松姫)が大藩加賀藩主前田綱紀嫁ぐことに於万の方嫉妬し、摩須姫を毒殺しようとして誤って媛姫を毒殺したという言い伝えがあり、現在定になっている。この容疑周囲の者が処刑され於万の方死罪免れたが、正之から遠ざけられ以後三女石姫の夫稲葉正往世話になったという。 その出所は、会津藩正史会津藩家世実紀』で、「松姫婚礼実家里帰りしていた媛姫の具合悪くなり婚礼2日後亡くなった」とある。その後本文への小文字補填として、「毒が入った松姫御膳お付きの者の機転取り替えられたため、媛姫がその毒入り膳を食べて死んだ伝わっている」とある。本文に対して100年上後編纂時に付け加えた補填文が元になっている。 『会津藩家世実紀』の本文では、媛姫は急病死とされ、その後保科家上杉家とも一切捜査処分もされた形跡がない。また、於万の方その後も正之の正妻として同じ屋敷住み上杉前田稲葉家後々まで親しく交際続けている。正之の死後聖光院称してからも2代藩主正経生母として絶大な影響力保った。 正之の不興買って罷免され家臣たちの間を取り成したり、正之を祀る土津神社三十六歌仙の額を奉納したり、藩主継いだ正容に教訓状を送ったとする話もあり、本当に犯人かどうか異説もある。 毒殺説の元は、『会津藩家世実紀』の他に『松平小君略伝』がある。『松平小君略伝』も於万の方没後100年上後文化年間1804年 - 1818年)にまとめられた。聖光院については「語り伝ふることあれど、正しき説はなし」として良い事も悪い事も両方エピソード載せている。その中に毒殺事件のほか、聖光院死に対し3代藩主・正容が弔問赴いた際、遺体の手動き正容の袴を掴んで放さなかったとする怪談話存在する明治以降、旧大名家へのタブーがなくなると、江戸研究家三田村鳶魚毒殺事件エピソード取り上げて発刊し、それが広く知られるようになった。ただしは『松平小君略伝』から悪いエピソードのみ取り上げ聖人といわれる保科正之が何で於万の方寵愛したのかわからない、と於万の方悪女決めつけている。現在の於万の方悪女説は、こういった影響をかなり受けていると思われる

※この「長女・媛姫の死について」の解説は、「聖光院」の解説の一部です。
「長女・媛姫の死について」を含む「聖光院」の記事については、「聖光院」の概要を参照ください。

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