鉱山集落の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:53 UTC 版)
「北大東島のリン鉱山」の記事における「鉱山集落の形成」の解説
東洋製糖によるリン鉱山開発が本格化した後、1919年にはリン鉱石を積み込む港付近に東洋製糖の社宅街が整備された。社宅街は1戸建ての所長宅、医師住宅、そして長屋である社員住宅など20棟余りで構成されていた。建物は木造和風住宅であり周囲はドロマイトの石垣で囲まれていた。幹部クラスの社宅には内風呂が設けられ、社員用の共同浴場も整備された。社宅街の中に社員たちが働く東洋製糖の北大東島出張所も設けられ、出張所には生活物資を販売する購買所が併設された。また木工場や修理工場など、鉱山設備の維持管理に必要な施設も整えられ、病院、請願巡査が勤務する派出所、無線通信所も社宅街の中に建てられた。社宅街には魚市場などの商業施設もあり、発電所から電力も供給されていた。また囲碁や将棋、ビリヤードが楽しめるクラブハウスが社員用と現業員(傭員)用の2棟設けられ、運動場とテニスコートも整備された。この社宅街とその周辺のことを「燐鉱山」と呼ぶようになった。 鉱山開始当初は独身の鉱夫が大多数を占めており、会社では社宅街の南側に、炊事を会社直営で行うトタン葺きの長屋形式の宿舎を数棟建設した。やがて妻帯する鉱夫が増えていくと、宿舎の周辺には鉱夫用の住まいも増えていき集落化していく。この集落を当時の東洋製糖北大東島出張所長が「大正村」と命名した。やがて鉱山が発展するにつれて鉱夫の住宅は社宅街の北側にも広がっていき、社宅街北側の鉱夫集落のことを当時の東洋製糖社長の名を取って「下坂村」と呼ぶようになる。そして港周辺に発展した社宅街ばかりではなく、「大正村」、「下坂村」を含めたリン鉱山関係者生活空間全体のことも「燐鉱山」と呼ぶようになった。なお鉱夫宿舎は独身鉱夫用であり家族用宿舎が整備されることは無く、家族持ちの鉱夫は茅葺きの小屋掛けで生活していた。 会社は鉱夫たちが住む宿舎近くに共同浴場を整備し、鉱夫以外の住民にも無料で開放していた。浴場は入浴順が定められていて、子ども、一般の大人、そして鉱夫の順番であった。水が乏しい環境であるため風呂のお湯は雨水を集めて沸かしており、浴場付近の傾斜地を利用した雨水の集水施設を設けていたが、やはり夏季の渇水時などには毎日の営業は出来なかった。
※この「鉱山集落の形成」の解説は、「北大東島のリン鉱山」の解説の一部です。
「鉱山集落の形成」を含む「北大東島のリン鉱山」の記事については、「北大東島のリン鉱山」の概要を参照ください。
- 鉱山集落の形成のページへのリンク