鉄砲と戦国時代とは? わかりやすく解説

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鉄砲と戦国時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 02:02 UTC 版)

火縄銃」の記事における「鉄砲と戦国時代」の解説

詳細は「鉄砲伝来」を参照 従来、『鉄炮記』の記述により日本への鉄砲伝来1543年天文12年)の種子島より始まるとされてきた。しかし、近年では、東南アジア広まっていた火器1543年天文12年以前倭寇勢力により日本複数地域持ち込まれたとする説が有力である(宇田川説)。いずれにせよ複雑な発射機構の無い鉄自体遅くとも16世紀初頭伝わっていた事が文献残っている。伝来後に日本において引き金にばねを用い改良おこなわれそれまでにはなかった瞬発式火縄銃となり命中率向上した。すなわち、火縄火力瞬時火薬点火させるため、引き金連動する毛抜き式弾点火装置ともない火挟みのなかの火縄引き金とともに瞬時点火する仕組みである。それに対し当時ヨーロッパ製の銃は毛抜き式弾がなく、引き金火挟み連結する緩発式火縄銃である。ヨーロッパで瞬発式が採用されるのは17世紀初頭から1630年代までの時期燧石式発火装置考案され以降のことである。 銃身においても、日本の筒部は錬鉄鍛造したものをベースとしており、中国のように鋳銅利用したものとは異なっていた。日本火縄銃鉄板をマキシノという棒芯延引させて捲くことにより真部をつくり、それにリボン状の鉄板巻いて鍛接した双層交錯法によってつくられており、幅広錬鉄を心軸のまわり捲きつけてその継ぎ目溶接するヨーロッパの単捲法とも異なっていた。したがって戦国時代の日本では、瞬発力においても火薬爆発力においてもヨーロッパ製のものより高性能のものが用いられていた。 鉄砲伝来以降日本では近江の国友と日野紀州根来和泉の堺などが鉄砲の主要生産地として栄え多く鉄砲鍛冶が軒を連ねた根来のみ織田信長豊臣秀吉による紀州攻め影響桃山以降衰退したが、国友日野・堺はその後鉄砲生産地として栄え、高い技術力誇った。また城下町において、鉄砲足軽鉄砲鍛冶集中して居住した場所は「鉄砲町」と呼ばれ現代でも地名残っている。五葉山のような火縄原料となるヒノキ豊富な山は藩直轄の「御用山」として保護されるようになった鉄砲伝来した当初は、高価な武器であったため武士用いたが、普及率が高まるにつれ足軽主要武器一つになっていったという説がある。 文禄・慶長の役では日本軍火縄銃集団使用明軍を手こずらせた。明軍日本軍瞬発式火縄銃命中率高く飛ぶ鳥を落とすくらいだとして特に鳥銃呼んで恐れた。のち趙士禎が『神器譜』(1598年慶長3年)から1603年慶長8年以降にかけて成立)を執筆するまた、築城技術でも火縄銃性能活かした横矢掛かり(これ自体はすでに存在していた)などが発達し赤穂城などに応用された。 大坂の陣では塹壕戦第一次世界大戦前起きていたため日本には相当火縄銃出回っていたことになる。

※この「鉄砲と戦国時代」の解説は、「火縄銃」の解説の一部です。
「鉄砲と戦国時代」を含む「火縄銃」の記事については、「火縄銃」の概要を参照ください。

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