鉄砲と雑賀衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 08:49 UTC 版)
天文12年(1543年)8月の鉄砲伝来後、根来寺の僧津田算長らが鉄砲を畿内に持ち帰っており、根来衆経由で雑賀衆に持ち込まれた可能性が考えられている。根来衆の佐武伊賀守が天文18年(1549年)に鉄砲を習い始める、という記述が見受けられるので、恐らくこの以前には根来衆に伝来していたと思われている。 根来衆には一定量の鉄砲があったと思われているが、これらの鉄砲をどのようにして用意できたのか、現在に至るも明確には解っていない。説としては、堺より外国から移入した、地元で作られた、当時は鉄砲作成技術はなく他の地域より職人を招いたなどが言われているが、いずれも推測の域を出ない。仮に鉄砲を自前で作成していたとしても、雑賀には鉄砲の材料となる鉄、真鍮、黒色火薬の材料となる硝石が生産されておらず、入手経路などを示す資料は解っていない。 ただし、硝石は雑賀に限らず日本国内では天然では産出せず、外国からの輸入に依存していたものであり、海運を営んでいた雑賀はむしろ入手が容易な立場にある。
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