金融財閥になった原因とは? わかりやすく解説

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金融財閥になった原因

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 07:39 UTC 版)

金融財閥」の記事における「金融財閥になった原因」の解説

安田財閥 創業者安田善次郎金融業以外にも、明治2030年代(1887〜1906年)に鉱山紡績・製釘・倉庫機械造船肥料海運などに進出した。だが、これらの産業部門全て経営不振になり明治末には安田財閥足かせとなったので、日露戦争後に、安田善次郎多角化断念して金融財閥になるという経営方針金融一業主義)を採用した。「自分資金纏めえすればいい、仕事浅野がやる」と考えて浅野財閥事業どしどし出資・融資した結果安田財閥浅野財閥実質的に一つ財閥見做し得るほど密接な関係になった。(松元は、浅野財閥安田財閥一部考えて安田財閥総合財閥見做している。)1937年昭和12年)頃には浅野事業会社払込資本総額四分の一安田財閥資本になった。また1935年昭和10年)頃には、新興森財閥にも多額融資をして、安田財閥森財閥は一体の関係と言われるようになった1929年昭和4年)に安田保善社持株会社理事安田銀行副頭取就任し実質的に安田財閥トップになった森広蔵金融一業主義遵守した。他より遅れて工業部門進出するのは不利なうえ、工業部門経営を担う人材安田財閥には居ない考えたからである。その結果1937年昭和12年)には、安田財閥金融業では三井財閥三菱財閥住友財閥上回った第二次世界大戦中軍部財閥内部から、安田軍需産業進出すべきだという声が上がったが、安田財閥金融一業主義墨守した。 野村財閥 野村財閥歴史浅く1904年明治37年)に証券業野村證券)を始めて成功してから、1918年大正7年)に野村銀行設立し1933年昭和8年)に信託会社買収し野村信託にし、1934年昭和9年)に生命保険会社買収し野村生命設立した。しかし産業部門貧弱で、スタンダード靴蝶矢シャツなどの小さな会社しかなく、海外ではゴム園やゴム工場経営したが、金融財閥から脱皮できなかった。

※この「金融財閥になった原因」の解説は、「金融財閥」の解説の一部です。
「金融財閥になった原因」を含む「金融財閥」の記事については、「金融財閥」の概要を参照ください。

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