金融街の盛衰とは? わかりやすく解説

金融街の盛衰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 09:58 UTC 版)

大手町 (広島市)」の記事における「金融街の盛衰」の解説

明治時代になると大手町地区には多く銀行立地され、広島市初の金融街形成された。主要な金融機関現在の鯉城通り電車通り)より一つ西に入った大手町筋(白神通り)に集中し本通近辺には広島商工倶楽部現在の商工会議所 / 旧横町)や広島郵便局(旧細工町)が設置、また郵便局前に1989年以降広島市道路元標」(1952年まで広島からの里程起点として用いられ原爆被災後は約30m西の元安橋東詰に移転し現在に至る。画像参照)が置かれた。北には広島城接収した陸軍駐屯地控え、また西は元安川挟んで当時広島随一繁華街広島市役所立地する中島地区現在の平和公園)にも近接していたこともあり、この町は藩政期以来広島経済中心としての地位守っていた。 1912年市電現在の広島電鉄敷設にともない川幅狭まりドブ川化していた西堂川が埋め立てられ現在の鯉城通り新たに造成された。この結果金融街道幅の狭い大手町筋からより幅の広い電車通り沿い(あるいはより東に位置する八丁堀方面)に移動し、現在に至っている(この点については大手町通り (広島市)参照)。その一方で1915年には猿楽町(現・大手町1丁目)に地元商品販路開拓のための広島県物産陳列館竣工し、同館はのち広島県商品陳列所広島県産業奨励館改称され美術展会場になるなど広島文化活動拠点となり、町を代表するランドマーク的な建造物となったこののち現在の大手町1・2丁目地区古くからの店が軒を連ねる落ち着いた雰囲気住宅地となったが、1945年8月6日原爆投下に際して細工町現在の大手町1丁目)の島病院爆心地となったため、街並みのほとんどが爆風熱線により瞬時消滅した全壊全焼地域になった。特に爆心地から0.5kmに入っていた現1・2丁目地区での住民はほとんどが即死し生き残った住民当日たまたま自宅離れていたもの中心にごくわずかであった広島郵便局始めとする町の建造物壊滅しわずかに産業奨励館のみが外壁などを残す廃墟となって戦後原爆ドーム称された。

※この「金融街の盛衰」の解説は、「大手町 (広島市)」の解説の一部です。
「金融街の盛衰」を含む「大手町 (広島市)」の記事については、「大手町 (広島市)」の概要を参照ください。

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