野王攻略
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野王に割拠している寧南将軍・河内郡太守呂護は名目上前燕の臣下であったが、密かに東晋へも帰順しており、前将軍・冀州刺史に任じられていた。361年2月、彼は東晋軍を招き入れ、鄴を強襲せんと目論んだ。3月、呂護の計画が露見すると、慕容恪は5万の兵を率いて呂護討伐に向かった。冠軍将軍皇甫真もまた1万の兵を率いて従軍し、護軍将軍傅顔もまたこれに付き従った。前燕軍が野王に到着すると、呂護は籠城の構えを取ったので、慕容恪らは城を包囲して長期戦の構えを取った。 4月、東晋の都督司冀二州諸軍事桓温は弟の都督沔中七郡諸軍事桓豁を許昌へ侵攻させた。前燕の鎮南将軍慕容塵はこれを迎え撃つも、返り討ちに遭った。 8月、数か月に渡る包囲により追い詰められた呂護は、配下の張興に精鋭7千を与えて突撃させたが、傅顔はこれを撃退して張興を討ち取った。食糧が尽きた呂護は皇甫真の陣営へ夜襲を仕掛けたが、皇甫真はこれを予期して警戒を強化していたので、突破を許さなかった。慕容恪はこの隙に攻撃を仕掛けると、呂護の将兵は大半が死傷し、呂護は妻子を棄てて滎陽へ逃走した。これにより野王は陥落し、慕容恪は野王の民を厚く慰撫して食糧を支給した。また、呂護の将兵については鄴へ移らせたが、その他の者については望み通りにさせた。さらに、呂護の参軍であった梁琛を中書著作郎に抜擢した。 361年9月、并州に割拠する張平が前燕に背いて平陽を攻撃し、前燕の将軍段剛・韓苞が討ち取られた。さらに雁門も攻撃を受け、雁門郡太守単男は討死した。だがその後、張平は前秦から攻撃を受け、考えを改めて前燕に謝罪して救援を請うたが、慕容恪は張平が離反を繰り返していたので救援を送らなかった。これにより、遂に張平は前秦軍は敗れて殺された。 10月、滎陽にいる呂護は再び前燕に謝罪して帰順を請うた。慕容暐はこれを認め、広州刺史・寧南将軍に任じて以前通りに遇した。 12月、領内に大赦を下した。
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野王攻略
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野王に割拠している寧南将軍・河内郡太守呂護は名目上前燕の臣下であったが、密かに東晋へも帰順しており、前将軍・冀州刺史に任じられていた。361年2月、彼は東晋軍を招き入れ、鄴を強襲せんと目論んだ。 3月、呂護の計画が露見すると、慕容恪は朝堂において対応策を議して「遠方の人が従わない時、文徳を修治することにより帰順させるという。今、護(呂護)に対しては恩詔を以って降伏させるのが適当であり、兵をもって攻め滅ぼすべきではないと考えるが、どう思うかね」と、群臣へ尋ねた。皇甫真は「護(呂護)は9年の間に3度も王命に背いています。彼の姦心を推察しますに、依然として狂暴でねじまがったままであります。それに明公(慕容恪)は今、江湘の地で兵馬を休め、剣閣にその名を刻もうとしている所です。どうして護がこの機に乗じて都に接近し、殺戮しないと言えましょうか。ここは軍事謀略をもって彼を取り除くべきあり、檄文をもって降伏を諭しても彼を再度用いることは出来ますまい」と答えた。慕容恪はこの建議を採用して出征を決断し、自ら5万の兵を率いて呂護討伐に向かい、さらに皇甫真を冠軍将軍・別部都督に任じて1万の兵を与えて従軍させ、護軍将軍傅顔もまた従軍させた。前燕軍が野王に到着すると、呂護は籠城の構えを取ったので、慕容恪らは城を包囲して長期戦の構えを取った。 前燕の護軍将軍傅顔は「護(呂護)は窮寇を統合しており、王師(東晋軍)もまた既に臨んでおります。軍の上下は士気を失っており、敢えてこのまま進軍せずに状況を窺うだけでは、その螳螂の心(漁夫の利を狙う事)を広げるだけです。そうなれば士卒は怖気づき、これは敗亡の兆候と言えます。殿下は以前、広固が天険であり、守るに易く攻めるに難い地であったので、故に長久の策を選択されました。今、賊形は往時と同様ではなく、ここは急攻すべきと存じます。そうすれば、千金の費を省する事が出来ましょう」と述べ、軍費節減の為に速攻をかけることを進言した。だが、慕容恪は「護(呂護)は老賊であり、幾度も変心をしてきた。あの防備をみるに容易には落とせぬであろう。黎陽を攻めた時、多くの精鋭を死なせたが、ついに攻略する事が出来ず、得られたのは困辱のみであった。今、窮した城を包囲しており、周囲の木々を伐採して道を断っている。内にあっては蓄積は無く、外からの強援も無いのだ。我は堀を深くして塁を囲み、将卒を休養させると共に、高官を美貨でもって離間させよう。事が広まれば勢いも窮するかた、その隙に動けばよい。我らは労せずして寇は日に日に疲弊し、10旬と過ぎずに必ずや攻め取れるであろう。兵を刃で血に染めずとも、座して勝利を収められるのだ。どうして士卒の命を無駄にして、一時の利を求めようか!」と述べ、これを退けた。 8月、数か月に渡る包囲により追い詰められた呂護は、配下の張興に精鋭7千を与えて突撃させたが、傅顔はこれを撃退して張興を討ち取った。食糧が尽きた呂護は皇甫真の陣営へ夜襲を仕掛けたが、皇甫真はこれを予期して警戒を強化していたので、突破を許さなかった。慕容恪はこの隙に攻撃を仕掛けると、呂護の将兵は大半が死傷し、呂護は妻子を棄てて滎陽へ逃走した。これにより野王は陥落し、慕容恪は野王の民を厚く慰撫して食糧を支給した。また、呂護の将兵については鄴へ移らせたが、その他の者については望み通りにさせた。さらに、呂護の参軍であった梁琛を中書著作郎に抜擢した。 361年9月、并州に割拠する張平が前燕に背いて平陽・雁門を攻撃し、将軍段剛・韓苞や雁門郡太守単男が戦死した。だがその後、張平は前秦から攻撃を受けると、考えを改めて前燕に謝罪して救援を請うたが、慕容恪は張平が離反を繰り返していたので救援を送らなかった。これにより、遂に張平は前秦軍に敗れて殺された。
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