野王攻略とは? わかりやすく解説

野王攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)

慕容暐」の記事における「野王攻略」の解説

野王割拠している寧南将軍河内郡太守呂護名目上前燕臣下であったが、密かに東晋へも帰順しており、前将軍冀州刺史任じられていた。361年2月、彼は東晋軍を招き入れ、鄴を強襲せんと目論んだ3月呂護計画露見すると、慕容恪5万の兵を率いて呂護討伐向かった冠軍将軍皇甫真もまた1万の兵を率いて従軍し護軍将軍傅顔もまたこれに付き従った前燕軍が野王到着すると、呂護籠城構え取ったので、慕容恪らは城を包囲して長期戦構え取った4月東晋都督司冀二州諸軍桓温は弟の都督沔中七郡諸軍事桓豁を許昌侵攻させた。前燕の鎮南将軍慕容塵はこれを迎え撃つも、返り討ち遭った8月、数か月に渡る包囲により追い詰められ呂護は、配下張興精鋭7千を与えて突撃させたが、傅顔はこれを撃退して張興討ち取った食糧尽きた呂護皇甫真陣営夜襲仕掛けたが、皇甫真はこれを予期して警戒強化していたので、突破を許さなかった。慕容恪はこの隙に攻撃仕掛けると、呂護将兵大半死傷し呂護妻子棄てて滎陽逃走した。これにより野王陥落し慕容恪野王の民を厚く慰撫して食糧支給したまた、呂護将兵については鄴へ移らせたが、その他の者については望み通りにさせた。さらに、呂護参軍であった梁琛中書著作郎抜擢した361年9月并州割拠する張平前燕背いて平陽攻撃し前燕将軍段剛韓苞討ち取られた。さらに雁門攻撃を受け、雁門郡太守単男は討死した。だがその後張平前秦から攻撃を受け、考え改め前燕謝罪して救援請うたが、慕容恪張平離反繰り返していたので救援を送らなかった。これにより、遂に張平前秦軍は敗れて殺された。 10月滎陽にいる呂護は再び前燕謝罪して帰順請うた。慕容暐はこれを認め広州刺史寧南将軍任じて以前通り遇した12月領内大赦下した

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野王攻略

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 22:53 UTC 版)

慕容恪」の記事における「野王攻略」の解説

野王割拠している寧南将軍河内郡太守呂護名目上前燕臣下であったが、密かに東晋へも帰順しており、前将軍冀州刺史任じられていた。361年2月、彼は東晋軍を招き入れ、鄴を強襲せんと目論んだ3月呂護計画露見すると、慕容恪朝堂において対応策議して遠方の人が従わない時、文徳修治することにより帰順させるという。今、護(呂護に対して恩詔以って降伏させるのが適当であり、兵をもって攻め滅ぼすべきではないと考えるが、どう思うかね」と、群臣尋ねた皇甫真は「護(呂護)は9年の間に3度王命背いてます。彼の姦心推察しますに、依然として狂暴でねじまがったままであります。それに明公慕容恪)は今、江湘の地で兵馬休め、剣閣にその名を刻もうとしている所です。どうして護がこの機に乗じて都に接近し殺戮しないと言えましょうか。ここは軍事謀略をもって彼を取り除くべきあり、檄文をもって降伏諭しても彼を再度用いることは出来ますまい」と答えた慕容恪はこの建議採用して出征決断し、自ら5万の兵を率いて呂護討伐向かい、さらに皇甫真冠軍将軍別部都督任じて1万の兵を与えて従軍させ、護軍将軍傅顔もまた従軍させた。前燕軍が野王到着すると、呂護籠城構え取ったので、慕容恪らは城を包囲して長期戦構え取った前燕護軍将軍傅顔は「護(呂護)は窮寇統合しており、王師東晋軍)もまた既に臨んでおります。軍の上下は士気失っており、敢えてこのまま進軍せずに状況窺うだけでは、その螳螂心(漁夫の利を狙う事)を広げるだけです。そうなれば士卒怖気づき、これは敗亡兆候と言えます。殿下以前広固天険であり、守るに易く攻めるに難い地であったので、故に長久の策を選択されました。今、賊形は往時と同様ではなく、ここは急攻すべきと存じます。そうすれば千金の費を省する事が出来ましょう」と述べ軍費節減為に速攻をかけることを進言した。だが、慕容恪は「護(呂護)は老賊であり、幾度も変心をしてきた。あの防備をみるに容易に落とせであろう黎陽攻めた時、多く精鋭死なせたが、ついに攻略する事が出来ず得られたのは困辱のみであった。今、窮した城を包囲しており、周囲木々伐採して道を断っている。内にあっては蓄積無く、外からの強援も無いのだ。我は堀を深くして塁を囲み将卒休養させると共に高官を美貨でもって離間させよう。事が広まれば勢い窮するかた、その隙に動けばよい。我ら労せずして寇は日に日に疲弊し10旬と過ぎず必ずや攻め取れであろう。兵を刃で血に染めずとも、座して勝利を収められるのだ。どうして士卒の命を無駄にして、一時の利を求めようか!」と述べ、これを退けた8月、数か月に渡る包囲により追い詰められ呂護は、配下張興精鋭7千を与えて突撃させたが、傅顔はこれを撃退して張興討ち取った食糧尽きた呂護皇甫真陣営夜襲仕掛けたが、皇甫真はこれを予期して警戒強化していたので、突破を許さなかった。慕容恪はこの隙に攻撃仕掛けると、呂護将兵大半死傷し呂護妻子棄てて滎陽逃走した。これにより野王陥落し慕容恪野王の民を厚く慰撫して食糧支給したまた、呂護将兵については鄴へ移らせたが、その他の者については望み通りにさせた。さらに、呂護参軍であった梁琛中書著作郎抜擢した361年9月并州割拠する張平前燕背いて平陽雁門攻撃し将軍段剛韓苞雁門郡太守単男が戦死した。だがその後張平前秦から攻撃を受けると、考え改め前燕謝罪して救援請うたが、慕容恪張平離反繰り返していたので救援を送らなかった。これにより、遂に張平前秦軍に敗れて殺された。

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