連邦の解体と無血独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 15:50 UTC 版)
「北マケドニアの歴史」の記事における「連邦の解体と無血独立」の解説
1990年、連邦からの離反を最も強硬に進めたスロベニアの共産主義者は、ユーゴスラビア共産主義者同盟を離脱し、独自の左翼政党となった。これによってユーゴスラビア共産主義者同盟は解体されていった。セルビア、クロアチアでも民族主義が伸張する中、冷戦終結の影響を受けて、ユーゴスラビアでは戦後初めての複数政党制による民主選挙が行われた。マケドニア同様にユーゴスラビアの構成国であったスロベニア、クロアチアでは独立を志向する勢力が圧倒的勝利を収めた。ボスニア・ヘルツェゴビナでも民族主義勢力が圧倒的勝利を収めた。マケドニアでは、民族主義政党としてよみがえった内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(VMRO-DPMNE)が小差で共産系勢力に勝利したものの、多数派を形成するには至らなかった。マケドニア議会では、キロ・グリゴロフを超党派の大統領として選出することで各党派が合意した。グリゴロフはティトーとともにユーゴスラビア人民解放戦争を戦ったパルチザンの闘士であり、その後のマケドニアや連邦全体でも大きな影響力を保持してきた古参の政治家である。 連邦を構成する各国が次々憲法を改め、社会主義体制の正式な放棄を進めている中、1991年にはマケドニアでも憲法改正が行われ、正式に共産主義体制を放棄、国名からは「社会主義」の語をはずし、マケドニア共和国と改称された。マケドニア大統領キロ・グリゴロフは、連邦が解体の危機に直面している中、完全な独立を求めるクロアチア、スロベニアと、反官憲革命によって連邦の乗っ取りを図り連邦維持を主張していたセルビアなどの間にたち、危機回避のための仲介努力を続けた。 しかしスロベニアやクロアチアはもはや連邦に留まる意思はなく、1991年6月に独立を宣言した。これを受けてマケドニアでも独立の準備が進められ、1991年9月8日、大統領キロ・グリゴロフの下、マケドニアは独立を宣言した。独立国となったマケドニアは、古代マケドニア王朝のシンボルであるヴェルギナの星(ヴェルギナの太陽ともいう)を描いた国旗を制定した。 スロベニアでは十日間戦争、クロアチアではクロアチア紛争という独立戦争が発生し、またボスニア・ヘルツェゴビナでも民族毎の組織化、武装化が進められていた中、グリゴロフは独立宣言をノミナルなものに留め、連邦側の要求には諾々と従い、武力衝突の回避を最優先とした。グリゴロフは、ユーゴスラビア人民軍が保有する兵器をマケドニア側に分け与えず、全てセルビア側が持ち去ることを認めるのと引き換えにユーゴスラビア人民軍の撤退を認めさせ、1992年3月にはユーゴスラビア人民軍の撤退も実現された。 マケドニアと国境を接するセルビア領のコソボ自治州ではアルバニア人の権利を奪うセルビアの政策に対し、アルバニア人の多くはいぜん非暴力の抵抗を続けていた。マケドニアにも人口の2割を超えるアルバニア人が住んでおり、散発的なデモや衝突は起きていたものの、この時点ではまだコソボ、マケドニアのいずれでもアルバニア人問題は武力衝突化の兆しは見られなかった。しかし1992年11月、マケドニア大統領キロ・グリゴロフは紛争予防のために国際連合平和維持活動(PKO)をマケドニアとセルビア(コソボ)との国境地帯に派遣するよう求めた。国連PKOは通常、紛争地帯に派遣されるものであり、紛争が起きていないところに予防的に配置されることは前例のないことであったが、この求めにしたがって12月、国際連合保護軍(UNPROFOR)がセルビアとの国境地帯に予防的に展開されることとなった。このことは後に、予防外交の成功した先行例となった。 スロベニア、クロアチアが武力衝突を経て独立し、ボスニア・ヘルツェゴビナではボスニア・ヘルツェゴビナ内戦という長期にわたる悲惨な内戦が繰り広げられた中、マケドニアはこのとき、唯一ユーゴスラビアから流血なしで独立を達成した国家となった。旧ユーゴスラビア地域の各地で紛争が続く中にあって、マケドニアは「平和のオアシス」と賞賛された。
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