通称:英領南ボルネオ「サラワク王国」との関係
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既にマレー半島部分は直轄海峡植民地であるペナン島やシンガポール島を分離する形でイギリスの植民地もしくは保護国となり、この地域に外国の影響を受けずに自主決定権を行使可能な独立国家はシャム王国(現在のタイ王国)だけになっていた。19世紀半ばのブルネイ王国領地内僻地では原住民の反乱が相次ぎ、ブルネイ王国のスルターンは1839年に、サラワクのクチンにやって来たイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を依頼した。ブルックは、ほとんど英語話者が存在しなかった事も幸いし、シンガポール島を要塞兼本拠地とする英国海峡植民地政庁軍事組織の協力をとりつけた事で反乱の武力鎮圧に成功し、ブルックにはスルタンからの褒賞としてサラワク地域(現在のサラワク州)が割譲され、白人初の「ラージャ(藩王)」に任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国された。サラワク王国は独自の社会を形成し、英国式立憲君主制国家を目指して各種制度を制定した。日本でも明治維新以降から存在が知られていたこの世襲王国は、昭和期に至るまで約80年間程存続しており、「東南アジアに存在する白人王のイスラム教王国」として世襲王朝として3代続いた。第二次大戦を経て統治継続を望まなかったブルック家の申し出により、戦後の南ボルネオ地域はマレー領植民地に戻ってきたイギリス軍の支配下に置かれ、マレーシア連邦の成立によって、北ボルネオは同国サバ州となり、元サラワク王国地域はサラワク州となった。現在でも一部ではサラワク王国時代の教育を受けた住民がおり、サラワク州住民のアイデンティティはマレー半島に住むマレーシア国民と様々な点で差異が見受けられるとされている。複雑な流れを経て南北領ボルネオ(ブルネイ王国除く)地域は、マレー半島以外のマレーシア領土を形成する連邦構成地域となった。 典拠管理 LCCN: n79144967 NLA: 35732811 VIAF: 123148065 WorldCat Identities: lccn-n79144967
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