通天閣のビリケン像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 15:30 UTC 版)
【初代ビリケン像】 1912年(大正元年)、大阪の新世界に遊園地・ルナパークがオープン。ルナパークの「ビリケン堂」に当時流行していたビリケン像が置かれて、名物となった。しかし、1923年(大正11年)にルナパークが閉鎖され、それ以降ビリケン像は行方不明となってしまっている。 しかし、ビリケンは日本全国に広まり、商家や花街では縁起物として流行した。 神戸市兵庫区の松尾稲荷神社には、大正初期に作られたビリケン像が祀られている。このビリケン像は木製で、右手に打ち出の小槌、左手に宝珠の珠を持って米俵の上に腰掛けており、従来の大黒天と混淆した和洋折衷の像で、当時は「ジャパンビリケン」と呼ばれ人気を博した。現在、松尾稲荷神社では本来の招福の御利益に加え、病気平癒、学業向上の御利益で信仰を集めている。 また、大正期にあっては、第18代内閣総理大臣の寺内正毅が、尖ったはげ頭をしていてしかも目が吊り上がっていたため、ビリケンにそっくりだといわれた。護憲運動がさかんであった当時にあって、寺内内閣は政党員からの入閣がない超然内閣であったが、マスメディアはこれを「非立憲(ヒリッケン)内閣」と称した。寺内はこのことよりしばしば「ビリケン宰相」と揶揄されたが、寺内自身は、この愛称を気に入っていたらしく、ビリケン像を3体も購入していたといわれている。 このように、日本においてビリケンは近畿地方を中心に、戦前・戦後を通じて福をよぶ縁起物として愛された。 【第二代目ビリケン像】 1979年、通天閣に「通天閣ふれあい広場」をつくる際、かつて新世界の名物であったビリケン像を復活させることとなった。このとき1949年(昭和24年)に田村駒株式会社が制作していたビリケン像が通天閣に貸し出され、盛大な催しが開かれた。また、この像をモデルにして伊丹市在住の安藤新平の木彫によって戦前のビリケン像が復元され、以来通天閣の名物となった。これが2代目ビリケン像と呼ばれるもので、高さ55センチメートル、幅36センチメートル、奥行き41センチメートルの大きさである。ビリケンはこうして通天閣の公式キャラクターの座を占めるようになった。なお、「第二代目」として愛されてきたビリケン像は、三代目への代替わり直前である2012年3月には、32年間なでられ続けたその足裏が4センチメートルほど窪んでいた。2016年現在、引退した2代目ビリケン像は音楽バンドのイーゼル芸術工房が通天閣から「バンドメンバー」として借り受ける形で保管しており、地方コンサートに連れていくこともあるという。 1996年には阪本順治監督の映画『ビリケン』が公開されている。通天閣を舞台とした人情劇である本作は「新世界三部作」の3作目とされている。 【第三代目ビリケン像】 2012年(平成24年)5月、通天閣100周年のリニューアルにあわせビリケン像が新調された。これがビリケン像の3代目である。この像はクスノキの一木彫りで、2代目よりも一まわり大きい。また、3代目ビリケンの像内には金のビリケン(「ビリ金さん」)が納められ、腹ごもりの像となっている。
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