退廃芸術作品の売却と処分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:54 UTC 版)
「退廃芸術」の記事における「退廃芸術作品の売却と処分」の解説
退廃美術展が全国を巡回する中、展覧会用に各地の美術館から「預かる」形で押収されていた美術品17,000点について、1938年には正式に国家が没収し自由に処分できるとする法律が公布され、展覧会を巡回していない美術品はベルリンの倉庫に押し込まれた。その中から、ナチスの高官たち、特にヘルマン・ゲーリングは自分の趣味である美術品収集のためにゴッホ、セザンヌ、ムンクなど13点を取り置きさせて別荘に持ち去った。 宣伝省高官フランツ・ホフマンやツィーグラーなどからなる「押収された退廃芸術作品活用のための委員会」が編成され、残りの作品のうち売れるものは売って外貨を獲得し軍備の費用にあてることとなり、メンバーの中にいた画商たちに売却がゆだねられた。特に、当時国際的に評価の上がっていた印象派やポスト印象派の絵画が高く売れることが期待された。しかし、ドイツ国内で危険視されている作品を褒めることは許されず、褒めることのできない作品を顧客に対して高く売ることは至難の業だった。しかもナチスから買うことを忌避する外国人もいるため、出所がドイツであることを隠して売ることも困難であり、処分は進まなかった。この時売られた作品は、各国のコレクターが出所を言えない物として秘蔵しているとされ、各国の美術館に流れ着いて公開されている作品以外の所在は分からないままである。 残った膨大な作品に対し、宣伝省のホフマンから「売れない作品は、国民の前で見せしめとして盛大に焼き払いたい」との圧力があった。結果、1939年3月に倉庫の鍵は明け渡され、同年3月20日、ベルリンの消防署の庭でホフマンたちによって多くの作品が焼き払われた。しかし後日、この時燃やされた売れる見込みのない作品や持ち出せなかった作品は少数で、燃やされた大部分は木材や梱包材などであったということがわかっている。実際は、鍵を明け渡す前、宣伝省の職員や画商らが売れるものはなお売ろうとベルリン郊外のニーダーシェーンハウゼン城に作品の大部分を避難させており、その多くは売買、交換、そしてスイスでの1939年6月の大々的なオークションで、各国マスコミの関心の集まる中、ヨーロッパの美術館やアメリカの個人コレクターなどに売却された。 こうして3,000点以上が売られていったが、なお城に残った作品の行方は分かっていない。各地の画商に流出して売られていったものもあったようだが、空襲の激化するさなか1943年にベルリンの宣伝省地下に移送され、以後はおそらく空襲やベルリン市街戦で破壊されたと考えられる。ベルリンを占領した赤軍は、退廃芸術展に展示されていた作品多数が地下に埋められていたのを発見し、これを持ち去った。この内のいくつかが現在『出所不明』とされた上でエルミタージュ美術館に展示されているが、ベルリンから持ち去られたうち何割がこうして展示されているかは不明である。これらの作品がどのように生き残ったかについても、確認できる文書資料はない。
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