退屈の価値
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:27 UTC 版)
一般的には退屈は価値のないものと考えられがちである[独自研究?]。しかし、まず生活に余裕がないと退屈は生じない。一瞬一瞬に命がかかる生活では退屈を感じるわけにいかない。その意味で、おそらく狩猟生活などで厳しい生活を送っていた頃の人類には退屈はなかったであろう。満腹して座り込み、顔を上げて星空を見たのが文明の始まりとの言葉もある。退屈はそれを抜け出る方法の模索への意欲を引き起こし、新たな刺激ややり方の模索への動機ともなる。[要出典] 芸術は感覚的刺激の新しいものを常に模索してきた。後進は先人の技術を継承し守り育てるが、それは似たような作品の単なる繰り返しとなりかねない。その結果、古いものは往々にして退屈と感じられるようになる。したがって、後進はそれを越える何かを探し、その積み重ねがその分野の枠を広げてきた。 刑務所に収監された人々の中には、退屈との戦いに悩まされたと告白している例が少なくない。中でも独房での監禁は労務や他人との交流といった退屈しのぎすら奪われた状態であり、長期化すると精神衛生上の危機に晒されるケースもある。懲役や禁固といった自由刑には、社会との隔離とともに、退屈によって生じる苦痛の強制が意図的に組み込まれているという見方もある。
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