退屈と文学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:27 UTC 版)
大江健三郎はエッセー『新しい文学のために』の中で、チェーホフの小説『決闘』を引きながら、馬車から見える切り立った岩壁と背後の山々と薄暮の空の織りなす絶景でさえ、ある者には「すばらしい見晴し」と感じられ、ある者には見飽きたつまらない風景としか映らないと述べている。大江がロシア・フォルマリズムの表現を借りて主張するところによれば、まったく同じ景色であっても、想像力の働きを介してそれが「異化」されるか否かによって、それを退屈と感じるかが変わる。異化によって単なる言葉から文学的イメージになるのだとすれば、退屈の分析は文学理論にとって重要となろう。 別の観点から考えるとすれば、昔話の構造を考えるとき、退屈に対してどのように振る舞うかが物語の展開にとって大きな役割を果たすことがある。ウラジーミル・プロップが『昔話の形態学』で示した図式に従うなら、ある種の昔話は、「禁を課されている」(物置を覗いてはならない、中庭から出てはならない、等)主人公が、なんらかの原因によって禁を破ってしまったことによって開始される。禁を破る原因は、命令を忘れていたとか、なにかに夢中になりすぎたとか様々であるが、要するに退屈したのである。そして、禁を破ったことによって、主人公に対する敵対者(ヘビ、悪魔、魔女、等)が登場し、物語が大きく展開する。主人公がどのようにして自分の敵対者と対決し、克服していくかに焦点が移っていくのである。 禁を破ることが大きな危機を招くという昔話のプロットには、昔話の伝承者である民衆が抱えてきたなにかしらの感覚が窺えるだろう。プロップの言葉を引けば、「これは子供のことを思いわずらう、親の日常的な心配ごとと考えることもできよう」。しかしそれだけではない。「そこには単なる懸念ではなく、何かもっと根深い畏怖がうかがえる」。一言でいえば、それは当時の民衆が感じていた、「人間をとりまいている目に見えない力を前にした怖れ」なのである。
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