辣腕を振るうヴェニゼロス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 16:35 UTC 版)
「エレフテリオス・ヴェニゼロス」の記事における「辣腕を振るうヴェニゼロス」の解説
首相の座に就いたヴェニゼロスはまずコンスタンティノス皇太子を陸軍に戻し、先のクーデターで抵抗した将校らを釈放、先のクーデターとは関わりがないことを示し、1911年には憲法を修正、教育改革、土地改革のための法整備、公務員の契約は公開試験で行うことなどを決定、さらに将校の立候補の禁止、教育の義務化と無料化、そして議院における議決定足数を今までの2分の1から3分の1に変更した。さらには穏健的に社会改革を勧めたが、これは当時ギリシャで進んでいた工業化の元で増えつつあった労働者らがヴェニゼロスを強く支持する基盤となった。これらの精力的な活動が行われた結果、慢性的な赤字に苦しんでいた財政も黒字に転換、これらの資金を用いた上で、ヴェニゼロスは陸海軍大臣を兼ねることで軍隊の整備をも行い、フランス陸軍とイギリス海軍がこれを補佐、再軍備が進められた。 1912年3月に選挙が行われると議員定数181に対してヴェニゼロス派は146を占めたが、オスマン帝国内で発生した政情不安のためにマケドニアを巡ってセルビア、ブルガリア、モンテネグロが暗躍、マケドニアを「回復されざる土地」としていたギリシャもこれに加わろうとしたがオスマン帝国各地に散らばって生活するギリシャ人が居たため、ヴェニゼロスは悩まされることになった。そのため、ヴェニゼロスはブルガリア、セルビアと交渉を行い、後の1913年6月にはセルビアとの間に条約が結ばれ、一方でセルビア、ブルガリアの間でも交渉が持たれた。このためマケドニアを巡っては列強諸国が強く干渉していたが、ギリシャ、セルビア、ブルガリアはこれを無視、1912年10月18日、モンテネグロが提案していたオスマン帝国攻撃に同調し、これらバルカン連合諸国とオスマン帝国との間に第一次バルカン戦争が勃発した。 この戦争でブルガリアも狙っていたテッサロニキをギリシャ軍は素早く占領、またエーゲ海での戦いも有利に進めヒオス島、レズヴォス島、サモス島を占領、さらにはイピルスの主要都市ヨアニナの占領にも成功した。この第一次バルカン戦争はバルカン諸国の勝利に終わり、1913年5月30日に結ばれたロンドン条約においてギリシャはこれらの地域を手中に収めた。そして次に勃発した第二次バルカン戦争でもギリシャは勝利を収め、クレタ島の統治権を手中に収めたがデデアーチ(後のアレクサンドルーポリ)と北イピルス地方北イピロス(英語版)を手に入れることはできなかった。 この両戦争の間、ギリシャの領土獲得は戦争以前の7割増しであり、人口も280万人から480万人となっていた。ヴェニゼロスが発揮したリーダーシップはギリシャを地中海の重要な勢力と成しており、『メガリ・イデア』実現は決して夢物語ではないと考えられていた。しかし、第一次世界大戦前夜、国王コンスタンディノス1世との間には確執が生じつつあった。
※この「辣腕を振るうヴェニゼロス」の解説は、「エレフテリオス・ヴェニゼロス」の解説の一部です。
「辣腕を振るうヴェニゼロス」を含む「エレフテリオス・ヴェニゼロス」の記事については、「エレフテリオス・ヴェニゼロス」の概要を参照ください。
- 辣腕を振るうヴェニゼロスのページへのリンク