輸送の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 13:55 UTC 版)
1911年に最初の路線が開通した際、その乗客は沿線の工業化に伴い増加する労働者や都市住民といった層が中心であった。運賃は1区3銭の区間制で、定期乗車券の販売も当初から行われた。開業初年度の輸送人員は174万人であったが、路線の延長、特に折尾延伸が長距離客の需要を喚起したことで、1914年度には年間600万人まで伸長した。さらに第一次世界大戦中の大戦景気により沿線工場が増加し人口も伸びると輸送人員は著しく拡大し、1919年度には年間輸送人員が1,500万人を超えるまでになった。 1920年代も引き続き輸送人員は増加傾向にあり、その伸び率は沿線人口の増加を上回る水準であった。特に増加したのが沿線市街地の連続化によって需要が喚起された短距離利用客で、この方面の需要を取り込むために停留場の増設などを行っている。年間輸送人員は1923年度に2,000万人に達し、1929年度に3,000万人を超えた。しかし一方で1920年代末からは路線バスの進出により1区間程度のごく短距離の利用客はバスとの競合状態となった。 1930年代に入り輸送人員は1931年上期を底に一時落ち込むがすぐに回復し、1935年度に年間4,000万人を突破した。ただし運賃収入は1932年上期に値下げした影響で一時減少している。この間の1933年3月の交通調査によると、軌道線の利用は八幡市内の利用が最多で、次に門司市内、小倉市内と続き、総じて市内での利用および隣接都市間の利用といった短距離利用が多かった。また停留場別では八幡製鉄所の最寄りである中央区停留場と緑町停留場(いずれも八幡市)の利用が最も多く、1日2万人以上の乗降があった。 1930年代後半になると、軍需産業の興隆による沿線人口増加と、燃料不足で運行本数が減少した路線バスからの乗客移転が重なり、軌道線の混雑は激化していった。年間輸送人員の数字で見ると、その増加は1938年度に6,000万人を超え、1939年度には8,000万人超、1940年度には9,000万人超となり、1941年度には1億人に迫るというハイペースであった。戦時下の資材不足の中で可能な限り車両の増備に努める一方、混雑対策として1940年(昭和15年)12月より朝夕ラッシュ時に一部停留場を通過する急行運転を開始し、他にも短距離客に不利なように運賃制度を変更して短距離利用の抑止を図った。こうのように輸送力確保に苦闘する状態で九州電気軌道の路線は1942年9月に西鉄へと引き継がれ、西鉄北九州線となった。
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