輸送の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/11 05:07 UTC 版)
フリードリヒスルーの遠征隊は2つのグループに分けられ、最初のグループは収容者をザクセンハウゼン(ベルリンの北部)からノイエンガンメに輸送する任務に充てられた。輸送は3月15日に始まり、輸送距離は約540 kmに及んだ。7回の輸送で約2,200名のデンマーク人とノルウェー人がノイエンガンメに運ばれてきた。輸送隊の指揮官の一人であったスヴェン・フリクマン(Sven Frykmann)は収容者と輸送行程についてこう記している。 "全般的に彼らは私がそれまで見てきた他の収容者に比べて比較的体格も良く、誰も個人の衛生状態について文句を言う者はいなかった。彼らはノルウェーとデンマークから送られた食料品により勇気づけられ、最近は待遇も顕著に改善されていた。彼らは皆、感謝と幸福に触れていた。(They were all touching [sic] thankful and happy.)ドイツにいるこの可哀想な人々を助ける選択肢を持っていた我々の全員が残りの人生で受けるに値するには十分なほど圧倒的な感謝を経験したと確信している。" 収容者をザクセンハウゼンで引き取るときに一人も漏れが無いように「グロス・クロイツ」グループにより氏名が確認された。 遠征隊のもう一つのグループは、ドイツの南部から収容者を回収してくる任務に充てられた。これらの中にはミュンヘン北部のダッハウ、シェーンベルク(Schönberg:シュトゥットガルトの南約80 km)やマウトハウゼン(リンツの東12 km)が含まれていた。この任務の行程は長く、ミュンヘンだけでも800 kmの彼方であった。困難さに追い討ちをかけたのが燃料不足に直面したための遅れであった。ビョルク大佐指揮の35台で構成される最初の輸送隊は3月19日に出発し、3月24日にノイエンガンメに戻ってきた。ほとんどの収容者が衰弱しきっていたので復路は大変であった。スウェーデン人看護婦のマルガレータ・ビョルケ(Margaretha Björcke)はこう記録している。 "12年間の看護婦生活でここで目撃したほどの悲惨さを見たことはありませんでした。脚、背中、首は、平均的なスウェーデン人であればその一つでも負っていれば病気休暇をとるほどの傷であふれていました。私は20もの傷を負った一人の収容者を見つけましたが、彼は文句一つ言いませんでした。" この最初の輸送で550名の収容者を収容したが67名の重症者は残してきた。この輸送中の最大の問題は収容者の慢性的な下痢であった。暫く後にこの状況はデンマークが供給した輸送中でも使用できる携帯用トイレにより解消された。 スウェーデンの輸送によりノイエンガンメはこれまで以上の収容者を受け入れることになったが、スカンジナビア人収容者を集結させるというヒムラーの約束は実現しなかった。スウェーデン側の医療関係者は収容所に立ち入ることを許可されなかった。ドイツ側はバスを預かってスウェーデン側に収容所内を見せようとしなかったので、最初の輸送ではバスは収容所内に乗り込ませられず連れてこられた収容者は最後の道のりを自ら行進しなければならなかった。
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